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ジムノペディに乱れるのろくのレビュー・感想・評価

ジムノペディに乱れる(2016年製作の映画)
3.4
ロマンポルノリブート①

見られたくないものはひたすら隠すものなんだ(当たり前)。

だからそれすら隠さないで「見てもらう」ってのは結構勇気がいるの。純粋に性器や乳房を隠す以前として「自分の隠しているとこ」を見られてしまう、それは翻って見ている人にも投げかける。だからポルノは「恥ずかしい」ものなの。結局そこまでは見せないはずなのに「見せてしまう」からこそポルノは意義があるわけで。日活ロマンポルノがあれだけ隆盛を極めたのは70年代に「見せてはいけない」ものが多かったからであり、そして斜陽になったのは80年代の「なにもかも隠さなくていい」時代になってしまったからかもしれない。

「隠す」ことが大事な時代だからこそポルノは強い人気があり、さらには「私小説」が勃興したのではないかしらん(70年代の少し前に吉行淳之介が人気作家になったのもそれが原因と思ってる)。私小説とポルノに共通するのは「見てはいけないものを見てしまう」原罪かもしれない。

そしてこの作品。日活のリブートだけど、僕は「ある程度」成功していると思う。というのもこの作品自体がある種の「私小説」だからだ。監督の行定は確かに生硬な映画を撮る監督だった(はずだ)。でもいつの間にか、「世界の中心で愛を叫ぶ」ではキャッチーな売れ方をしてしまい、さらには(本来そうなりたかったはずの)マニアからはそっぽを向かれる監督になってしまった(もう今は露悪的に商業映画ばかりとっているのもその典型かもしれない。リボルバーリリーを見よ)。板尾演じる映画監督はそのまま行定ではなかったか。

しかも行定はそれにも拘わらず「性的に偏向を持った」監督だった(初期作品である「JAM FILM」を見ればそれは分かる)。本来ニッチなとこをこだわり続けるはずがいつの間にか、「売る」監督に。だからこの映画は行定の逡巡をそのままトレースしているのではないかと見ていて思った。板尾の苛立ちはそのまま行定の苛立ちだったんだ。

と好意的に観たけど最後はいただけない。結局行定の「こうすれば感動するんでしょ」とでも言いたいような「観客を想定した映画」に成り下がってしまった(しかもその想定は薄っぺらい観客だ)。さらに最後行定は(結論を作れないからだろうか)板尾にただ絶叫させるという定型に逃げてしまった。別に終わらせる必要はなかったのに。だって私小説なんだから。

それにしても板尾はエロい役をやらせたら上手い。よれよれのコートを着てぶっきらぼうな男。花村萬月や吉行淳之介の小説に出てくる男たちを彷彿させる。壇蜜の映画でも見事な演技を見せたけど、ちょっと僕が気になる俳優なんです。はい。

※ベタだけどエリック・サティの音楽はいい。あの無機質な感じがたまらない。エリック・サティの音楽がなかったら僕はもう少し評価を下げていたかもしれない。

※行定は商業映画なんか撮らないでエロに特化すればいいのにって思って見ていた。絶妙に刺さるシーンがあったがそのほとんどが濡れ場であった。ただどのような場面かということは言わない。僕にだって「隠したいこと」はある。
ろく

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