SatoshiFujiwara

フクシマ、モナムールのSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

フクシマ、モナムール(2016年製作の映画)
3.8
ドイツ映画祭2016「HORIZONTE」にて。

本作の舞台である、東日本大震災〜原子力発電所事故の発生した福島。たかが映画なんぞであの未曾有の惨事をどう表象するのか。必ずついて回る根元的な問い。被災者と非・被災者は、実際に映画の中で東日本大震災〜福島原発事故にもろに遭遇してしまった当事者サトミ(久々に桃井かおり本領発揮ではないか!)と、全く関係のないドイツから半ば軽い気持ちで遊びのように「仮設住宅に住む人々を元気づけようと」やってきたマリーとして表象される。

奇妙な流れにより、高濃度放射能ゆえに立入り禁止区域に指定された地区にあるサトミの家で同居することになった彼女とマリーがうちとけるにはさほどの時間は必要なかった。

しかしサトミは「生き残ってしまった苦悩」から自殺を図り、マリーは日本に来たそもそもの「本当の理由」を思い出して号泣する。最後にはまるで実の親子のごとく親密になったとしても、サトミが昔の芸者仲間が連れてきた若い見習いに「昔取った杵柄」でいつになく熱っぽく舞の形を教えている場面に遭遇し、マリーは何かを悟ってサトミの家を出ていこうとする。サトミは涙を見せつつも、明るく送り出す。つまり、それぞれのバックボーンはまるで違えど、いや、違うからこそ互いを尊重し、静かに見守り、理解しようとする。その上で、根源的な違いは厳然と存在し埋まるはずもない。そこに意識的である。

この映画でのこういう「描き方」には批評的な距離感があり、ユーモアも交え、深刻になり過ぎない清々しさがある。何より、フィクションとして良くできている。悲劇的なものをそのまま悲劇的に描くこともできただろうが、ドリス・デリエはそうはしなかった。そこに1つの見識をみる。「最初と最後の新宿ガード下の猫」「サトミとマリーが真似する猫の鳴き声」「サトミがいきなり東京の娘夫婦をマリーと訪ねていくシーンで明かされる猫にまつわる話」。この猫のフックと回収、そしてラストが結びついて何か切ないものが込み上げよう。

一般公開を望む。

※「猫」のエンドロール終了後のとある3枚の写真とそこに付されたメッセージは、ともするとそれまでのフィクションを回収してしまうリスクすれすれである。本編と逆のことをわざわざやっている。ドリス・デリエはそんなことは百も承知でこのシーンを入れたのだろうが、個人的には蛇足の感を免れない。その真意を訊いてみたいものだ。

※邦題はむろんデュラス〜レネの『ヒロシマ、モナムール』から取ったんだろうが、意外に悪くないと思うがどうでしょうか? エマニュエル・リヴァ演じる「女」=マリー。ドイツ語原題は「Grüße aus Fukushima」(福島からの挨拶)。
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