YAJ

ラブレスのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

ラブレス(2017年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

【Виктор Цой спел・・・】

 実に映画らしい映画。
シンプルなストーリーを、美しすぎる映像、印象的な音と共に魅せてしまう確かな手腕。恐らく文字では伝えきれなかったであろう場面(声にならない慟哭のシーン等)を映像で見せられ、観る側も言葉にならない感情に胸が締めつけられるようだ。そんな匠の映像表現も楽しめる映画らしい作品だ。

 物語は単純。
 男は一流企業勤務、女は美容院経営者。これは首都モスクワの中でも相当ハイソな家庭だ。その2人は目下離婚協議中で、既に新しいパートナーがそれぞれ居て、新たな生活に12歳の息子が邪魔で互いに親権を押し付け合う。そのことを知ってしまった息子が失踪する。捜索の過程で彼らは自分たちの結婚生活や人生、価値観などを振り返る、というお話。

 結末(失踪したアレクセイはどうなったか?)は明確に描かれない(たぶん)。作品の意図するところも、その解釈を観る者に委ねるような作り。これは、このアンドレイ・ズビャギンツェフ監督のお得意の手法だそうだ。
 本作以前の作品『父、帰る』『裁かれるのは善人のみ』のどちらも鑑賞しているうちの奥さん曰く、不条理極まるエンディング、それでいてどこまでも耽美的で美しい映像(撮影監督も前作と同じミハイル・クリチマンだ)が癖になる、どうやらそれらがこの監督の持ち味らしい。

 直接ストーリとは関係ないが、森の中に現れる巨大なパラボラアンテナなどは、この作品を記憶に留めておく印象的なアイコンとなるだろう。そんな見せ方も巧いな、と思った。

 本作でも、いかんなくズビャギンツェフ的な演出が施されている。冒頭から、どこでロケしたのかと思う程、美しくも寂しいモノトーンの森の雪景色が印象的。これがシベリアの奥地ではなく、大都市モスクワの街のすぐ郊外に拡がることは、あの地で暮らした者にはよく分かる。冬、足を踏み入れ、一歩道を間違えばとたんに遭難できてしまう森が、本当に普通に存在する。 我々の日常、男女の間、人間関係のすぐそばに、そうした暗い森の入口は開いている。そんなことを思わせる不気味なオープニング。訴えかけるようなピアノの打鍵も強烈に心に刻まれる。

 「Loveless -Нелюбов」と題された本作品。ロシア語話者には英語と原題との差が気になるところだ。英語は”愛情の欠落”?、でも原題ロシア語は”愛に非ず”というニュアンスか? いずれにせよ「愛」について強烈に観る者に何かを問いかける。父親も母親も本当に息子を愛していなかったのか?という問いは表面的だろう。本当の愛は存在したのか?と問うているようでもあり、では、本当の愛ってなんなのか?を更に考えさせられる。
 「愛」とはいったい? 容易に解を得られないこうした問いを投げかける作品は、脚本にブレがあっては成り立たない。その点でもしっかり筋の通った作品だった。実に見応えがあったし、鑑賞後もいつまでも語り合えそうだ。

 時代設定も良かった。2012年。ウクライナ問題が燻り、世情の不安をやがて来る冬季オリンピックへの期待で糊塗していたような(BOSCOのジャージが懐かしい)、実は人心の内は不安定だったという頃だ。
 場面の片隅に映る国家政情不安や、ウクライナ侵攻を伝えるニュースは時代を映し出す以外にも、国家の国民への愛、祖国愛、愛国心のなんたるかも批判しているのかもしれないと穿って見てみるのも面白いのだ。国家にしたって、国民を愛してるが故に何かをしているわけではないのだ。それは、分かりやすいくらいНелюбов(愛に非ず)のことだろう。



【ネタバレ、含む】



 鑑賞する人、それぞれの想いで観たほうが良いので、あまり書かないでおくのが良いかもね、この作品は。
 YAJ家的にはストーリー以外に、いかにもロシアな風景、いかにもロシアな人々、「あるある」満載な点(Сталовая、懐かしー!モルス飲んでるー!とか・笑)が楽しめた。

 基本的に母性本能のある母親のほうが、失踪後の息子の捜索に熱心で気を揉んでいる風ではある。彼女は最後に「本当は誰にもあの子を渡したくなかった!」と叫ぶ。それはある意味本心か?!とも思わせる。

 父親、母親、どちらの愛が…?と考えるだけでもいいんだけど、本筋はそこじゃないだろうというのは容易に感じ取れるだろう。
 互いに、自分の人生において相手を利用したとも言える、この二人の結婚だったが、それが利己的な打算によるものなのか妥協の産物なのかは誰も判断できまい。過去も未来も、いろんな計算も働いた上での人生の選択が示されていて、人は生きるための最善の道を選ぶ。まさにそれが「愛」だとしたら、この男女はどこまでも「愛」を全うし続ける二人だったかもしれない。その愛は、自己愛だという単純なものでもない。感情だけでは貫き通せないものが愛であり、生きていく選択の手段のひとつも愛、・・・だとしたら。

 愛とは生きてゆくための手段のひとつにすぎないのであれば、他の感情や価値観とは違う特別なものであるとすること自体がおかしなこと。決して軽ろんじろというわけではないが、「しょせん愛なんて・・・」と嘯いてみるのもありかもしれない。今、誰もが思うところの「愛」ではない何かを糧に人は生きている。故に、Нелюбов(愛には非ず)なのかもしれない。

♪Ооооу, но это не любовь...(でも、それは愛じゃない)。 
Виктор Цойの呟くような歌声が聴こえてきそうだ。
YAJ

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