晴れない空の降らない雨

千と千尋の神隠しの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

千と千尋の神隠し(2001年製作の映画)
5.0
■祝祭
 もともと宮崎駿の作品はストーリー以前に、物語世界を体験させることにかけて圧倒的に優れている。というか、『太陽の王子ホルスの大冒険』以来の演出家としての彼の原点はそこにある。そして、この点で本作の右に出るものはない。
 この作品、千尋が湯婆婆と契約を交わすまでに40分もかかっている。何が時間を食っているかというと、千尋の動作である。とにかくトロい。クサレ神までかなりスローテンポに話が進む。おかげで観客は不思議の町に迷い込み、湯屋の祝祭的雰囲気を楽しむ十分な時間をとることができる。カエル男にナメクジ女、そして奇妙な姿形の神々がひしめく猥雑な世界を。
 
■千尋
 千尋の動作は、本作のアニメーションの中で最も特徴的だ。とくに序盤の動き方による千尋の人物表現は徹底している。「帰ろうよ!」と叫ぶ所、岩を渡る所、両親が豚になりオロオロする所、いちいち転んだり頭ぶつけたりする所、礼儀作法を知らない所。これによって臆病で無知で鈍くさい彼女の性格が強調される。
 しかし、これは宮崎駿の資質には反していた。彼はアニメーターとしては人物を“気持ちよく”動かす才能があり、ストーリーテラーとしては人物に感情移入していく傾向があった。『紅の豚』から導入された「絵コンテを描きながら話を考えていく」スタイルは、彼の本来の性に合っていたとも言える。『千と千尋の神隠し』では、このキャラクター憑依型の物語進行が全面的に開花することとなる。
 
■ストーリー
 そんなわけで、クサレ神編が解決すると「修行編はこれで終わり」と言わんばかりに、千尋は一途で行動的なヒロインに変貌する。背筋は伸び、顔は凛々しくなり、行動は機敏になり、湯婆婆やカオナシにも怖じ気づかない。こうして宮崎作品の主人公らしく生まれ変わった千尋は、後半のストーリーを一気に駆け抜けていく。
 しかし電車で銭婆の家に向かうパートで、再び展開は大きくスローダウンする。宮崎の理性が、これ以上の活劇は千尋には無理だと判断したのだろう。というより、「千尋にはあくまで背丈に合った冒険をさせたい」という思いがあったのではないか。結果としてバランスがとれ、我々は千尋の変化を違和感なく受け止めることができる。というか公開当時は意識に上ることさえなかった。
 こうして本作ではどこまでも千尋の視点に寄り添って物語が展開され、余計な説明は極力省かれている。このような話の進め方を観客が受容するのを大きく助けているのが、久石譲の劇伴である。楽曲それ自体、宮崎駿作品の中で最高傑作だと久石本人が語っているが、場面場面の雰囲気を完璧に伝えてくれる。
 
■水の映画
 本作では「水」が重要なモチーフになっている。意外なことに、ジブリ以降の宮崎作品では水のエレメントは、火・土・風といった他の要素に隠れていた。
 「水」というと汚れを洗い流す清らかで透明のものがまず思い浮かぶが、宮崎駿はその真逆のものも表現する。その発端はじつは「腐りかけの巨神兵」にある。巨神兵の体液のような粘性の液体(=汚濁としての水)は、『もののけ姫』のデイダラボッチでさらに発展され、本作ではクサレ神やカオナシの吐瀉物などに見て取れる。加えてタタリ神のミミズや膨れ上がったカオナシの体など「ブヨブヨした気持ち悪いもの」の存在感が、『もののけ姫』から急速に強まっていく。これらも「水」エレメントの表象ととらえてよいだろう。
 つまり、汚濁は水の一側面として描かれ、むしろ水の本体になっている。汚濁とは結局のところ「生命」の一側面であろう。生きることは清浄と汚濁の両方を含むし、死とも本来は不可分である(「近頃は行きっぱなしだ」が)。
 以上はもちろん自分の意見だが、この観点で本作を読み解くと色々と明快になるのではないかと思う。かつてないほど露骨な性的表現がある理由や(序盤の父親が階段登り終えたあたりの背景とか完全にアウトだろ)、千尋の最後の旅が意味するものなど。そもそも湯屋の祝祭めいた雰囲気からして、汚濁と清浄を併せ持つ水の性格と軌を一にしている。
(ちなみに宮崎駿における水は「冒険」を呼び起こすものでもあるが、これは別に取り上げるにふさわしい作品がある)
 
※宮崎駿と四元素
 ついでに宮崎駿作品に登場する他の三元素「火・土・風(空気)」について整理しておく。すこぶる単純な話で、「火は文明、土は自然、風は自由」だ。風のエレメントは飛翔という形で現れるが、よくよく観ると飛行には風と関わらないものがある。それはゴリアテなどの大型飛行機であり、これらは「火」によって飛ぶ(男性的飛行)。逆に、風とともに飛ぶ場合、その飛翔はささやかなものであり大地と対立しない(女性的飛行)。
 宮崎作品の対立はずっと土と火の間にあり、『もののけ姫』で徹底的に展開された。その結果として宮崎のモチーフは「生そのものの肯定」に向かい、生命を象徴する「水」のエレメントが前面に出てくることになった……と一応は整理できるだろう(あと現実的にはCGの進歩で色々やれるようになったという面もあるかも)。