ぐち

ナショナル・シアター・ライヴ 2018 「ジュリアス・シーザー」のぐちのレビュー・感想・評価

3.5
観客が舞台上で巻き込まれつつ作品の一部として機能するっていう演出は、こんなに規模が大きくないけどKAATで観た谷賢一演出の『三文オペラ』を思い出した。

とにかく舞台装置と演出のすごさよ…
観客を巻き込みながら場面に合わせてせり上がったり付け足されたりしながら変化して行く舞台セット。シーン同士をスムーズにつなぎつつスペクタクルに展開していくドラマとマッチしている。
訳のわからないまま巻き込まれるPit席の観客(立ち見だから多分見えない部分もいっぱいあるだろうし、ばらけたところにいる観客の前や後ろで演技が行われたり、銃撃シーンでは暗闇の中に発砲音とストロボの光が瞬くだけのシーンとかある)と、それを俯瞰して観られる二階席の2つの視点があるのも面白いし、多分感じ方見え方が違うんだろう。そしてそれがこの物語のテーマ(大衆と政治と信念と愛、情報と嘘、いかにして大衆感情は演出されるか)と絡んでくる。
現地で見たい!!!!

とはいえ、NTLのカメラワークもすごく良かったと思う。俳優にごく近いときもあるし、二階席から見たような俯瞰の画もあれば、まるでそこで巻き込まれているようなPit席の観客の視点もあり、そのどれでもないカメラしか入れないような場所の画もある。他の方の感想で『第三の視点』と言われててなるほどと思った。

物語の方も、現代劇風の衣装や設定になってそうなのに、恐らく原作そのままのセリフを喋ってて違和感がない。
何千年も前が舞台の話を、何百年も前の人間が書いてるのに現代でも祖語のない内容っていう…なんという普遍性。なんという本質。シェイクスピアの偉大さに気づいて震えた。

シェイクスピアはシーザーとブルータスの歴史を教養として知ってる層に向けて書いてるだろうからこれは作者の意図では無いかもしれないんだけど、私はぼんやりとした中学の歴史教科書くらいの知識しか無いまま見たので、シーザーが暗殺されるほど酷い行いをしてたのかとか逆にどれほどの人格者でアントニーたちに良くしていたのか知らなかったので、葬儀でのブルータスとシーザーの演説合戦はどっちの言葉が正しいのか本気でわからなくて困惑した。実際のローマ市民の気持ちが味わえたと思う。
最初はブルータス目線で見てたからローマのためにはシーザーを殺さなければならなかったんだろうなぁ圧政を敷いてたんだろうなぁと思ってたんだけど、アントニーのシーザー讃美を聞いたら え?そうなの?って思ったし。こんな状態でベン・ウィショーに静かに切々と訴えられたりデイヴィット・モリッシーに熱っぽく訴えられたら民衆はころっといってしまうかもしれん…
本気でどっち側につくべきが困惑しながら見たけど、その時大事だなと思ったのが「私は正確な情報を知らない。わからない」という「無知の知」だった。わからないから冷静に流されず耳を傾けて情報を得ようとした。それが大事な姿勢なんだな。
『その人にとってはそれが正解かもしれない情報』でも『別の誰かにとっては真逆の印象を受けた事柄』になったりしてフェイクニュースのようなものができてしまいデマが拡散し混乱する状況をSNSで何度も見てきたからね…って思った(比較が卑小すぎる)

そういう意味で、この物語上でシーザーの人となりや暗殺に至るまでの具体的な事例(シーザーが共和制を軽んじるような行動をしててそれがローマの共和制に誇りを持ってるブルータスらに危機感を抱かせたとか)(逆にいかにシーザーが英雄的で民衆のために働いたかとか)が描写されてないのが効果的だと思った。どっちが本当のことを言ってるのか判断がつかない。
シェイクスピアがそれを意図して書いたかはわからないんだけど(この話はブルータスの葛藤とかをメインにしてるしそもそも常識だろって省いただけかもしれない😅)

特にそれが印象的なのがシーザーが王冠を三度拒んだっていうシーン。
実際にその場面は描かれず、最初は反シーザー派のメンバーの伝聞で語られる。「ほんとは欲しいはずなのに、パフォーマンスで拒んだんだわ」
なるほど演出過多なこすい野郎だ。
別のシーンでは腹心のアントニーからその場面が語られる。「私が冠をかぶせようとしても彼は頑として受け入れなかった。高潔な人物だ」
なるほど実はそうだったんだね!

ってなるわこれ。
歴史的事実をみれば自分1人に権力を集中させようとしたシーザーの茶番とも取れるけど、実際にその場を見てない我々にはその胸中は計りかねるし見てたとしてその人の真意などわからない(現に当時のローマ市民は熱狂してた訳だし)
当時の人たちなんてもっと真意なんてわからなかったろう。

そういう構成や演出が巧みだな〜と思った。

私が浅い知識で勝手にイメージしてたブルータスはもっと軍人然とした感じだったんだけど、ベン・ウィショーのどちらかというと哲学者のようなブルータスは新鮮だった笑
訳も彼だけ一人称が「僕」
わかるよ、このベン・ウィショーのブルータスは「僕」だよね。でもブルータスが「僕」ってイメージはなかった笑
この舞台では女性軍人のキャシアスに一捻りされそうな。

全体的に温和でちょっと気難しくて理想が高くて高潔なブルータスだけど、終盤戦場での召使への優しさの示し方はちょっと気持ち悪いというか怖かった…完全に主従が明確な上での優しさの「お恵み」の印象が強くて…ペットみたいな…いや彼らは友人じゃなくてあくまで主従として成立してる関係だからそれでいいんだけど。でも自分を殺させるのも酷すぎないか?って思ったり…
この作品が書かれた時代を考えるとあの関係の中では最大限の優しさや行為の示し方なんだろうし、自分を殺させるのもあの時代英雄の名誉ある自決を介錯できるのは栄誉なのかもしれないんだけど。
どーしても現代の感覚で見てしまって怖い関係だなぁと思ってしまった😅
昔のハリウッドでいう『(白人に従順で協力的な)良き友人の黒人(お手伝いさん又は格下の相棒)』みたいな。

それは置いといても自分で自分を殺せないベン・ウィショー ブルータスには おま、おまえは〜〜も〜〜😂ってなったよ笑
ベン・ウィショーブルータスはそういうとこ。そういうとこやで!
どこまでも「らしい」
彼のブルータスになっててそこは憎めないなと思った。
ぐち

ぐち