140字プロレス鶴見辰吾ジラ

愛しのアイリーンの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

愛しのアイリーン(2018年製作の映画)
4.7
”愛という名の乱射事件”

吉田恵輔。
邦画で最もガンアクション映画を巧く撮る監督。
銃は使わない、心の急所を言葉で銃を放つ。
ここまで私は、吉田恵輔作品を「麦子さんと」「ヒメアノ~ル」「犬猿」を鑑賞しており、どれもこれも琴線に触れる傑作級であり、本作「愛しのアイリーン」の予告編を見て以来、鑑賞すれば今年トップ5に食い込むであろう作品だと思っていた。上記に挙げたように吉田恵輔作品の魅力はガンアクションである。しかしながら銃を用いた銃撃シーンは一切存在しない。言葉という弾丸を容赦なく相手の急所に撃ち込むのである。本来であれば、人がこれを聴いたら不快な気持ちになるであろう言葉には我々も抑制するが、吉田恵輔は容赦なく相手の急所に耳の痛い言葉や一線の超えるような暴言を撃ち込んでくる。それも至近距離からである。

それに加えて吉田恵輔作品の長所でもあり短所でもある手法が追い風を吹かせる。それはデフォルメ化である。漫画原作を脚本から監督まで取りまとめる吉田恵輔は、実写映画としての会話であれば、キャラクターとしてのデフォルメ化されたセリフの応酬や回想シーンの挿入がすこぶるチープに映ることがよくあるのだが、その日常としての異質なデフォルメ化がある事態による侵されていく日常との鬩ぎ合いによる歪さを際立たせていると思う。

さらに吉田恵輔作品に生じる”愛”という形のないものを映像として見せようとする気概も魅力の1つだと思う。そして形のない愛という概念と言葉の弾丸が各々のベクトルと内に秘められた想いの大きさから乱射事件の如く飛び交ってしまう歪さが、愛という概念性を強調し、そして愛は自己満足であり自分自身の罪悪感から救済する自己中心的概念なのではないかと本作を見て感じた。

まず本作のポスターに注目したい。
主演の2人はパチンコ弾の詰まった風呂に結婚式の衣装で清潔感溢れる姿で浸かっている。そして周囲は鏡に囲まれていて、合わせ鏡のような演出がなされている。

つまりこれは、パチンコという依存性のあるものに使った男女の理想像とそれは自分自身を映した鏡行為の交わることのない平行線のループなのではないかということだ。パチンコ依存症という言葉をよく耳にするが、そのチャンスに使われる弾に浸かる形で、劇中では描かれない清楚な格好で2人が映っている。これは2人が思う愛や幸福の理想像であろう。そして愛すること、愛されること、幸福に浸ることに依存をする関係や性質を表していると思われる。そして周囲を取り囲む鏡の存在は、あくまでそれが自身の自己満足を満たす行為であり、劇中に印象的に使用される自慰行為のようなものであろう。それぞれが自己の理想にする愛や幸福の価値観が平行線で存在しており、互いがそれに批判を唱えようとすると押さえつけておくべき愛から生まれた愛情が銃乱射事件のような悲劇的な暴発をして日常を破壊していってしまう構図になっていたと思う。主題歌のフレーズにもある「愛は絡まり~」にあるように愛という概念の複雑性が己のベクトル上に打ち出されるため登場人物全員の行動原理が破滅へのドミノ倒しの最初のワンタッチになっていってしまう。それをコメディックにブラックユーモアの描き切れる吉田恵輔の手腕と役者陣営の活躍には脱帽である。

役者でいえば安田顕の度を越した暴れっぷりや木野花の「スリービルボード」のフランシス・マクドーマンドも真っ青の熱量ある演技が脳に過剰な圧力をかける。そしてすべての肝となるアイリーン役のナッツ・シトイの計算された天真爛漫性と生き残ることへのシリアスな裏の面の映し出し方にひたすら感服させられた。

上記であげた平行線で乱れて撃ち会う哀しい銃撃戦の中で、ベクトルが交点で交わる瞬間は、ドブネズミのように美しいをまさに映像で表したとんでもない芸術性を孕んでいた。初めてのアイリーンとのキスシーンや、命のやり取りのあとの性行為のシーンはとんでもない熱量で美しさを放っている。

本作は銃社会でない邦画が生みだした悲劇的な銃乱射事件の疑似体験であり、社会問題に切り込みながらも日常がデフォルメされたコント性による着実な笑いのある現実性、そして愛という概念が平行線で交わらないからこその奇跡的な交差の美しさ、希望・絶望すべて詰め込まれた劇薬的傑作である。