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家へ帰ろうのLCのレビュー・感想・評価

家へ帰ろう(2017年製作の映画)
4.8
好き。

主人公の話し方が、アルゼンチンの友だちそっくりでニコニコしてしまった。

主人公がピアノの人に「それは Educación と呼ばれるものだ」と言う。
Educación、作中ではマナーと訳されていたが、字面を見てピンとくる通り、日本でも Education という言葉を聞く。たぶん、教育という言葉と紐付けている人が多いと思うが他に、訓練、一般教養等の言葉で表現されることもある。
イメージとしては、人として身につけるべきもののこと、と捉えるといいのかもしれない。

この Educación を説く主人公が、ドイツ人女性に頑なな態度を見せる場面がやってくる。
例えば、かつてドイツと共に戦った国として日本が挙げられるが、「日本人です」と言った時に同様の態度を取られる可能性をどこまで日本人は認識しているだろうか。本作の主人公に、という意味ではなく。
「日本人です」と言えば、相手は「あら、私アニメもマンガも好きよ、よろしくね」と言ってくれたりする。しかしこれは、紛れもない Educación だ。日本の人だとわかって面と向かって「ああ、戦争で散々暴れ回って原爆落とされた国だよね」とは言わない。
何が言いたいかというと、外国の人はみなストレートに気持ちを表現するから、主人公もああした態度になった訳ではない、ということだ。外国人はストレートに感情表現する、ということを少し誤って認識している人がよく見受けられるが、彼らにも Educación が備わっているのだ。

主人公とそのドイツ人女性の交流は、これも考えさせられるものがある。
彼女は根気強く、しかし柔らかな態度で接した。押し付けるのではなく、かといってすぐ諦めるのでもなく。
ドイツの地に足をつけたくない、という主人公の為に、服を並べてその上を歩く案を実行して見せた。
これは、悪いことをした方が相手の言うことを何でも聞く、という態度とは異なるのだと理解しないといけない。
彼女は、彼に歩み寄りを見せた。自分にできる思いやりを行った。そして、同じ人間として同じベンチに座るし、目線も対等な高さで合わせている。主人公はそこに文句を付けていない。
この交流からも、Educación を見つけることができそうだ。

途中挟まる胸の痛くなる場面は、人の心の破壊方法は驚く程様々あって、その方法を考え行っているのもまた人であると考えさせてくれる。あれは様々ある中の、ほんの一瞬の風景だ。
この心の破壊に、Educación の面からも向き合うことに考えを巡らせてもいいのかもしれない。

作中、主人公の腕に数字が見える。
そして、末娘の腕にも同じように数字が見える瞬間がある。
この数字、主人公がユダヤ人であり、収容所に入れられた時のものかなと推測することはできると思う。
では、末娘さんの腕には何故。
あの場面が伝えたかったのは、末娘さんは心から父親を想っていた、ということだと思う。父親の痛みを少しでも理解しようと、自分でいれたのかもしれない。そして、父親はそれを初めて目の当たりにしたんだね。

目的地が近付くにつれて怖くなる心理は理解できる。
作中主人公は、字幕では「会えることも、会えないことも怖い」と言っていたが、スペイン語的には「彼がそこに今もいるとしても、彼が今そこにはいないとしても、そのどちらも怖い」という文脈になっている。
彼が今もそこにいるとしたら、何故。約束を果たさず姿を現さない自分のことをずっと覚えていて、恐ろしい顔で生きているのか。
彼が今そこにいないとしたら、何故。自分との約束なんて忘れて、彼の人生に自分がいないものとして生きているのか。
実際主人公が一字一句同じように考えていたかどうかはわからないが、「自分が彼に会う」ことを恐れるのとは違う心情が見えてくるかもしれない。

本作は色々なスペイン語が聞けるのも面白い。たぶん、こだわって描写している気がする。
アルゼンチンに暮らしていた主人公が使うスペイン語。宿泊施設の女性が使うスペイン語。ドイツ人女性が使うスペイン語。使う言葉や抑揚や発音なんかが違う場面に気付きやすいと思う。
どれが正しい、というより、どれも生きた人が意思疎通の為に使っている生きた言葉だ。訛っているとか発音が変とかは、実際見ていて気にならないのではないだろうか。使用者にあたたかなものがかよっていれば、どのスペイン語だってあたたかなものになる。
同じ日本語なのに、使用者にそれがなかったら、冷たく鋭いものとなって、相手に穴を開けるのだ。
これもまた、Educación 的な問題なのだろうか。
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