奴隷3部作、第3章。少しパワーダウンは残念。
今作では毎熊がスケコマよろしく次々と女性を手玉にとり奴隷にしていく。毎熊がいつも行くバーがあるんだけど、そこにいる奴らがほんといけ好かないのよ。「対等ではないんだ、支配されないといけないんだよ」いい大人がこんなこと言ってはいけないと思うんだけど。その一方で「それがいい」って思っている人っていっぱいいるんじゃないかな。
E・フロムが「自由からの逃走」で書いているけど、意外と「自由」にしていいって言われると人って何していいかわからないんだよ。むしろ積極的に「不自由」な場所の飛び込もうとする。そこでは人権なんかなくてパワハラでしかないんだけど、むしろパワハラを認めてしまう。
うん、僕はそんな世界が嫌でしょうがないんだけど、その一方でそんな世界が「意外と」好まれるのも理解できる。なるほどね。だからSとMはなくならないし、部活動は尊いし、先輩には意外とついていくし、尽くす女はいなくならないのかとも思ってしまった(そんなに簡単な問題でもないことも付け加えておく)。
でも相手を一方的に「支配/被支配」の関係で行くのにはしんどいんじゃないかな。短いスパン(2年や3年)ならそれも可能だろうけどいつまでも続くと「疑問」が湧いてくる。フロムが言っていたのは正しいと思うけどそれはあくまで瞬間での問題。長いスパンでは違くなるんじゃないかな。だってこの映画だって最後には、そう「ついていけなくなる」。
刹那的だから美しいんだろうし(並木道を毎熊と杉山が歩くシーンはほんと美しい。杉山の首には奴隷の象徴である首輪がまかれている)瞬間的だから没頭できる。でもそれはほんとにいつまでも続かないんだ。それは城定もわかっているんじゃないの。
その後、その刹那的な楽しさはその後の人世にダメージを落とす。最近は「くだらなくていつまでも続く凡庸な人生」のが悪くないのではと僕は思っている。意外と刺激はいらない。映画で十分だ。