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天国でまた会おうのneroのレビュー・感想・評価

天国でまた会おう(2017年製作の映画)
5.0
皮肉と諧謔に満ちた不思議な物語だった。
描かれているのは、人としての尊厳あるいは存在への根源的な承認。シリアスな展開にもかかわらず全編を不思議な寓話感が覆っている。
監督脚本はアルベール・デュポンテル。主役のひとりアルベールも演じている。脚本には原作者ピエール・ルメートルも関わっているという。ミステリー作家として高名だが、本作では肌触りが異なる。監督によるかなりの改変がなされているらしい。


WW1の最前線で絡み合う三者それぞれの運命が寓意を持って描かれる。
主となるのは仮面の芸術家エドゥアール。描く絵はもちろん、二〇代で早逝したことといい、そしてそのエキセントリックな風貌さえ、エゴン・シーレをモデルにしているとしか思えない。旧来の価値観に意義を申し立てる反逆者でもある。
もう一人の主役アルベールは小心者にして共犯者であり傍観者。無力で愚かな大衆の象徴か?
そして、目的のためには手段を選ばない強欲の象徴プラデル中尉。戦後の混乱に乗じ、エドゥアールの姉を垂らし込んで資産家ペリクール家へ婿入りし、国家さえも搾取しようとする。

下っ端兵士アルベールは、戦場で上官プラデル中尉の悪事を知り命を狙われるが、同僚のエドゥアールに救われる。だが彼は爆撃で重傷を負う。彼への負い目から、小心者のアルベールは本意ではないが少しずつ悪事を重ねることになる。

戦場で顔も声も失い”死者”となったエドゥアール。絶望の淵から彼は本来の芸術スピリットを取り戻し、仮面による感情表現というメソッドを手に入れる。この仮面がまさに映像化の最大の魅力だ。
青の抽象化された装飾、月、接吻、雫、風車、そして紙幣のライオン、etc。あの便器はデュシャンだろうし、接吻はブランクーシへのオマージュか。さらにはピカソともモジリアニとも見える青い髪の女の仮面にファントマまで、キュビズムそしてダダ、シュールレアリズムといった、20世紀初頭の先端美術シーンあるいはサブカルチャーのエッセンスを凝縮したかのような仮面群は実に見事だった。特に、無音にして雄弁、プリミティブでなお表情豊かな口の動く仮面が印象深い。(すべて作者はセシル・クレッチマー) 
さらに言えば、デュシャンの「泉」が発表されたのは彼らが戦場に向かう前の1917年だし、彼らがカタログ製作に用いたコラージュ技法がピカソによって”発明”されたのもまさにこの頃だ。

ルイーズという感応者を得て生気を取り戻したエドゥアールは戦没者記念碑詐欺を企む。それは理不尽な戦争への意趣返しであり、自分を認めてくれなかった父親への反逆でもあった。アルベールは最初こそ反対するが、やがて彼女にも捨てられた自身の不遇さから積極的に関わるようになる。

詐欺は大成功。搾取した金で開いたパーティでの、エドゥアールが放つ戦争への断罪が小気味良い。断罪される旧支配者たちの仮面はみな旧来の風刺画のスタイルで仕上げられていることも象徴的だ。ステージに立つエドゥアールの感情を廃した黒塗りの面は、身代わりとなったセネガル人なのか。あるいは時代は少々ずれるが、アル・ジョルソンの「ジャズシンガー」での黒塗りメイクすら思わせる(声は出ないのに)

アルベールは心を寄せていたペリクール邸のメイドにもプラデルの魔手が迫るのを知り、逃走前に中尉とのケジメを付けようと対決する。戦場ではアルベールは馬によって助かったが、種馬男プラデルは馬の頭とともに命を落とす。ここでも皮肉な円環が作られている。

一方、エドゥアールは父親との和解を果たす。孔雀だろうか、美しい青い鳥の仮面とそこに覗く大きな青い瞳のみで表された万感が沁みる。重度のモルヒネ中毒となっていた彼は、最高に幸せなその時に終わらせることを選んだのだろうか。

構成も練り込まれていて、逃亡先モロッコで逮捕されたアルベールの告白という形式が効いていた。
エンディングは原作とは異なるらしい。円環がカチリと閉じるようなこの結末は、映画的でもあり、救いのないように見えた物語に、寓話的な慈しみを与えてくれた。

続編もあるそうなので、原作を読んでみたい。
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