イトウモ

夢の涯てまでものイトウモのレビュー・感想・評価

夢の涯てまでも(1991年製作の映画)
4.0
1990年に製作された架空の1999〜2000年の世紀末が舞台の映画。軌道を外れて落下するインドの衛星をアメリカの核弾頭が撃ち落とそうとしていて世界の終わりが囁かれる。5時間あるけれど。3本の連作映画という感じ。

SFとか東洋の造形とかトンデモ映画の感じはあるけれど、撮影が全部キレキレなので、なにをやってもいいという感じがある。
ユージーンがサミュエルをボコボコにする殴り合いで泣いた。


①クレアとトレヴァーの出会いから核爆発、目的地の到着まで。
恋人とパリで暮らすフランス人歌手のクレアは、交通事故をきっかけに知り合ったニースの銀行強盗の集団に、パリに現金を運ぶのを条件に分け前の譲渡が持ちかけられる。
パリへと金を運ぶクレアは、トレヴァーという男と彼を追う謎の黒人に知り合い、トレヴァーをパリへと送り届ける。再び平穏な暮らしに戻り、銀行強盗と落ち合う期日を待つうちにトレヴァーの追手をパリで見かけたクレアは、トレヴァーの行方を追ってベルリンへ飛びGPSみたいな機械を持つウインターという探偵を雇ってトレヴァーを追いかける。帰って来なくなるクレアを追いかける夫のジーンも巻き込まれ、トレヴァー、クレア、ジーン、ウインター、トレヴァーを追うアメリカ人、FBI、KGBの追いかけっこはモスクワ、北京、東京へと移動。クレアは東京のパチンコ屋で失明して動けなくなっているトレヴァーを発見する。
日本の田舎の療養地で視力を回復したトレヴァーはサミュエル・ハーヴァーという本名と、彼の父親が発明した盲人にも見える映像を撮影するカメラ、息子の撮影した映像を待つ目の見えない母親の話をクレアに伝え、アメリカで彼の妹の映像を撮り、強盗団のチコと落ち合ってオーストラリアに暮らす彼の両親のもとを目指す。オーストラリアに追いかけっこのメンバーが全員集結すると、核弾頭が衛星を破壊し、電磁パルスで一時的に世界中の電子機器が使えなくなった状態で

②サミュエルの撮ってきた映像を母親に見せるためには、サミュエルの知覚を母に同期する必要があるがうまくいかない。クレアが撮影したサミュエルの妹の映像を同期するとき、クレアがサミュエルの代わりとなることで母が映像を見られるようになる。集落に集まってきた探偵や強盗やジーンたちはバンドを組み始める。音楽を奏でて2000年の到来を祝う中、クレアが亡くなる。

③サミュエルの父、ヘンリーは脳波を読み取る機械の改造して人間の夢を撮影可能にする。この計画に反対した研究所のメンバーは集落をどんどん去っていき、最後にヘンリー、クレア、サミュエルだけが残される。3人とも自分の夢を見るだけの中毒になって廃人化してしまう。ユージーンが、廃人化したクレアを研究所から連れ出し、ヘンリーはFBIに捕らえられ、サミュエルは岩場の迷宮に迷い込み、集落は完全に解散。エピローグ的にそれぞれの末路が描かれる。

というのが大筋で、ヘンリーの発明は明らかに2000年に映画の再発明を描いている。マックスフォンシドーが演じるこのアメリカを追われた天才眼科医というのは、ニコラス・レイかサミュエル・フラーのために書かれたような役で、オーストラリアの集落はハリウッドを追われた映画監督がハリウッドの外に作ったユートピアとしての夢の撮影施設。そこではたった一人の盲人のための映画が作られている。この映画監督の息子、正体不明の男サミュエルがヴェンダースの分身。彼は全時代のアメリカを追われたアメリカ映画の監督に代わって世界中で映画を撮っている。

カメラに同化することが不吉な死を招くことは彼の失明が象徴しているが、その失明を日本の田舎に暮らす笠智衆が薬草で治すというモチーフは、アメリカ映画の息子で、ヨーロッパ人でありつつコスモポリタンであろうとするヴェンダースが日本人の映画になにを期待しているのかよくわかる。映画を撮ると死んでしまうが、日本人はそれでも死なない作法を知っているということなのだろう。

ボニクラ展開や、ホークス的な理由もなくどこまでも追いかけてくる女、泥棒たちの共同体というモチーフがちりばめられた①はぐっとくる。へんな東洋、へんな未来の造形もぜんぶ映画のための舞台装置として撮られているのがすごくいい。

②、③は①ほど面白くないけれど、2000年に映画が再発明されてセカイ系的な「きみとぼく」の世界観の引きこもりになり、人類がYOUTUBE漬けの廃人になるという予言には必然性があって苦い。