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ジョーカーのohshimaのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
1.0
まず自分の話から始めると猿やってたジャリの頃の記憶が割と曖昧、あるいは曖昧ということにしといてる方の人間なので、物心ついた頃、という定型句が意味するところの年齢が僕は世間様よりもかなりかなり高い。で、物心ついた頃から僕には映画を見ていて誰かに感情移入するという経験がほとんどない。ていうか多分全くない。一生懸命思い出したけど一人も思いつかない。当たり前だよね、他人だし。みんな僕より素敵だし、そもそも架空だし。だから今夜多分僕は生まれて初めて主人公に感情移入するって経験をしました。ストーリーも、カットも、音楽も、演技も全てが完璧で(例外が一つだけ。全くもって無意味で無駄なシーンが一つだけある。でもあれが無駄だとわからない人はこの映画を見る価値も見た意味もないので踏み絵として絶対必要だとも言える。)このジョーカーは僕のことだ、と思わせる要素に満ちすぎていました。恍惚としながらも精神的には嘔吐し続けてました。もちろんそんな訳ないし全然合理的な思考じゃないのは百も承知です。自己責任なんてクソみたいな言葉を振りかざし、貧富の格差を拡大させ、愚かなヘイトスピーチや歴史修正主義で社会を慰撫することがシステム全体に如何に巨大なリスクをもたらすか、この映画はその証左なわけですがそんなもん映画になる前から分かり切ってることだし、そんなことも理解できないゴミが溢れかえってるせいでこの国は、あるいはこの世界はここまで腐り切ってるんだし、今更どんなに美しい映画が現れたところでバカにつける薬はないしもう手遅れなんですよ。それでもこの映画に効用があるとすれば「いざとなったらルールなんか破っちゃえばいいのよ」「嫌いなやつ全員ぶっ殺せば解決するんだよ」っていう真実を心に留めることで、踏み外す一歩手前の人たちに、明日からの日々をなんとかやり過ごす力(のようなもの)を与えてくれることでしょう。でもそれって映画の役割だっけ?ていうか地獄の繰り延べの加担してるだけじゃない?どんなに高品質だろうがそんな映画を撮ることが正しいって言える?や、正しい、正しくないの話はやめましょう。これは99%僕だけのために作られた映画なわけだけど、果たして僕は僕のために映画が作られるなんてことを望んでいたんでしょうか?そりゃ答えはNOでっしゃろ。
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