ちゅう

82年生まれ、キム・ジヨンのちゅうのレビュー・感想・評価

82年生まれ、キム・ジヨン(2019年製作の映画)
4.1
社会的な抑圧が個人をここまで傷つけるということに胸が苦しかった。
女性に対する抑圧を知っているつもりだったけど、それを主観的に体感するのは別次元のものだった。

家事、子育てといった生活の維持の負担を女性が負っているという現実が嫌というほど描写される。
オン・ザ・ロックでも散らかった服やおもちゃを拾うシーンが印象的に繰り返されたけど、この映画でもジヨンが掃除をしていたり食器洗いをしていたり洗濯物を干していたりといった家事からシーンがはじまることが印象的で、ジヨンの生活が家事と子育てで塗りつぶされていることが、ジヨンが追い詰められていることがよくわかる。

男性たちの無理解がまだまだ強いうえに、今まで抑圧されてきた女性が下の世代の女性を抑圧していくことでさらに逃げ場を失わせていた。
疲れ切ってやつれた顔をしている彼女が精神的に崩壊したとしても無理はないと思えた。


そして、そこからさらにもう一歩踏み込んで、そもそもなぜ僕たちは生きることにこんなにも苦しみを感じなければならないのかということに思いを馳せざるを得なかった。
そこに僕は”自己実現の呪い”のようなものを感じずにいられなかった。

自己実現とは甘美なものだけど重荷でもある。
封建的な社会から解放され個人の自由を獲得したことによって自己実現という考えが生まれた。
”自由になればあれもできるこれもできる”という願望の究極としての自己実現は人の生にとって祝福ではあるけれど、それが満たされないとなると逆に呪いとして跳ね返ってくる。
したいのにできない、できるはずなのにできない、他の人はできるのに自分にはできないという思いが自分の責任として帰結しフラストレーションとして心を蝕んでいく。
それは呪いという以外になんと表現したらよいだろうか。

社会からの抑圧が強い女性にとって自己実現は、呪いとしての機能をはたしがちなのだろうと思う。
社会からの抑圧が女性より少ないはずの男性でさえも、自己実現を呪いとして受け取ってしまって狂ってしまっている人が多いのだから。


これから僕たちは、女性への抑圧を解放していくと同時に、男性にも女性にも同等に背負わされることになる自己実現の呪いから解放されていくしかないのだろう。
自己実現の呪いによって狂った男性が女性をさらに抑圧している状況を見るにつけ、自己実現の呪いから解放されることは女性への抑圧の解放に寄与することにもなるはずだ。

それはこの映画のラストと同様に、自分の思いを表現し自分を許しながら、小さな幸せを積み上げることで光が差し込んでくる類のものなのかも知れないと思ったし、そうであってほしいと願ってもいる。
ちゅう

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