ろく

甘いお酒でうがいのろくのレビュー・感想・評価

甘いお酒でうがい(2019年製作の映画)
3.3
僕らの世界は断片(フラグメンツ)があるだけかもしれない。

一見繋がっているように見えて実際はただ「断片」が集合しているだけなんだ。その場、その場があるだけ。僕らの世界はその断片が集合して「繋がっている」ように錯覚する。だから大事なのは「断片」を無理して「結合」させることでなく、それぞれの断片を楽しむことかもしれない。

この映画はその「断片」を楽しむように「説得」する。毎日毎日を「それとなく」大切に。この傾向はスール・キートス映画にも見られる(小林聡美は断片を楽しむ天才だ!)。それは僕らにも刺さるだろう。だって僕らは「人生を一つに物語にする」のにあまりに疲れているから。

その点でこの映画を楽しむ人とこの映画は共犯関係を結ぶ。だってそうじゃないか。あなたの人生は「物語」にはならないんですよ。でもね、その場その場だけだったら少し「断片」を楽しむことが出来ます。だからあなたもこの映画のように「生きて」大丈夫なんですよ。まるで新興宗教のパンフレットみたいに僕らの生活を「肯定」してくれる。ちょっと穿った見方かもしれないがこの映画に(そしてスール・キートスの映画に)僕が感じている違和感は「共犯にさせられること」の気持ち悪さだ。

松雪泰子が延々と日々の生活を語る。彼女はぼそぼそと自分の生活を独白する。まるで何も楽しいことなどないように。でもそのぼそぼその中には「些細な楽しみ」がいっぱいだ。そこには語られる「物語にならない愉楽」がある。その愉楽を肯定することは、僕らが「物語として生きていけないこと」とパラレルかもしれない。いや、もう「物語」として生きていくことが出来ないことは分かっているんだ。だからせめて「断片」で楽しみなさい。そんな甘い誘惑がこの映画にある。でもそれを受け入れてしまったら。それを取り込んでしまったら。

これは僕の生き方の問題だろうから、それでこの映画を否定することはできない。ただ僕はそれに対して「いやいや」という気持ちがある。ただ「断片」を快楽として消費し、その中で「少しだけ幸せ」を探すことは正しい(これは僕にとっての「正しい」だ)ことだろうか。

※それでもお酒を飲んでいる松雪泰子の姿にはうっとりした。僕はお酒が全く飲めない。人生の半分は損をしているとはよく言われるが、50過ぎて確かにそうかもという気持ちがある。酔うとただ気持ち悪くなるだけで浮遊感(あるいは酩酊感)を感じたことは一度もないんだ。

※東京という場は僕らを物語の主人公にしてくれない。結局僕らは「断片」のままで生きていくしかない。でもそれに抗ってもいいんじゃないかという思いは結構ある。そして抗うことができないからこそ「映画」があるんじゃないかという思いも。
ろく

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