むぅ

プライベート・ライアンのむぅのレビュー・感想・評価

プライベート・ライアン(1998年製作の映画)
4.1
"ざまあみろ"と"してあげたのに"

自分の中から消えてくれたなら。それが出来なくとも伸びてきた爪のように簡単に切り落とすことが出来たなら。
そう思う私の中の"二大いらない感情"である。
"怒り"も"悲しみ"も時には必要で、それが自身と向き合うことになったり、それがきっかけで成長出来たりもする。
その純度の高い感情と違って、"ざまあみろ"と"してあげたのに"は、自分の中に現れた時とても濁った何かが心の中をうごめく感じがする。そして、しぶとい。


第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦。
この作戦で4人の息子のうち3人を亡くしたライアン家に対して、軍の司令部は唯一生き残っている可能性のあるジェームズ・ライアン二等兵の帰国を命じた。
そのために8人の兵士がライアンの捜索に向かうことになるのだが。


私が苦手とするその二つの感情でさえ、どれほどまでに人間らしくあるからこその感情なのかを突きつけられた気がした。
激しい戦闘シーンが生々しく辛い。けれども、戦いではなく何気ない会話のシーンで人の命をただの"数"として捉えている言葉が出てくるのがまた辛い。

しんどい。そう思いながら観終わった時に友人から電話が鳴った。
お互いに観ている『鎌倉殿の13人』の、とある人の死にぷりぷりと怒っていた。わかるよ、と思いつつもその真剣に怒る様が可愛らしくてちょっと笑ってしまった。
そこで、ふと思った。
『鎌倉殿の13人』だって、たくさんの人が殺し合いで死んでゆく。
けれども『プライベート・ライアン』で感じるような苦しさは正直なところ、私にはない。
"ざまあみろ"と"してあげたのに"が泥くさく描かれているのも面白く観ている。
まだ80年も経っていない出来事と、800年以上経っている出来事の違いなのか。人の命を奪っている事への感情の描かれ方の違いなのか、戦争を描いているのと北条義時という人物を描いていることの違いなのか。
どれも当たっていて、どれも外れているような気もする。

でもどちらの作品からも、"しっかり生きるとは"という問いを投げかけられていると思う。
"ざまあみろ"と"してあげたのに"という、私にはグロテスクに感じるその感情と折り合いをつけながら頑張ることも、ひとつの"しっかり生きる"なのかもしれない。

"ざまあみろ"も"してあげたのに"も、自分が優位な立場にありたいであったり、捻れた承認欲求に繋がっている気がする。
私の人生という歴史の中でもたびたび顔を出すその感情。
厄介だなと思うと共に、改めて歴史は繰り返すのではなく、歴史は"人が"繰り返すのだなと思った。
むぅ

むぅ