ちゅう

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編のちゅうのレビュー・感想・評価

4.4
強者の自己犠牲というこの映画の描く倫理は普遍的であるけど、この腐りきった世の中へのカウンターとして鮮烈で、強烈に心の中に食い込んだ。
腐臭のする鬼をこの腐った社会のメタファーとして、倫理で対抗することの価値を説く最高のジュブナイルだった。


エンターテイメントとして何も考えずに、綺麗な作画、質の高いアニメーションを楽しもうと思っていたのだけど、期待していた以上に物語としてよくできていていろいろなことを想起させられた。

序盤に列車の中で眠らされて見たい夢を見させられ、その夢から覚めようとするところが描かれるのだけど、この時点ですでに現代社会のメタファーとしか思えなかった。
これは明らかに”見たいものだけを見る”という態度が蔓延しているこのポストトゥルースの現代を風刺しているものだった。
そこから何とかして目覚めることが鬼との戦いの第一歩であるのと同様に、この社会に対抗するためには現実を直視することが第一歩であると訴えているように感じた。


そして”役割”。
そもそも鬼滅の刃という作品は”生まれながらの役割”みたいなものに対して極めて肯定的であると思う。
例えば、竈門炭治郎が痛みを堪えている場面で長男だから我慢できると独白するシーンがある。
この作品の時代背景的にはすこぶる自然だから素通りしそうになるけれど、立ち止まって考えれば、現代の作品でここまで”長男”という属性を行動の指針として描き肯定しているものは珍しいと思う。
周りから押し付けられていやいややっているのではなく、進んでその役割をまっとうしようとしている。
炭治郎の優しさは理想的な”長男”としてのそれなのである。

そして、今作の煉獄杏寿郎の”役割”。
彼が母から言われる”弱き人を助けることは強く生まれた者の責務”という言葉。
自分の欲望に堕落した鬼からの誘いに惑わされず、杏寿郎はこの役割をまっとうしようとする。
この倫理的な役割をまっとうしようとする姿勢が強烈な魅力となって僕たちを惹きつけていると思う。


個人の自由を履き違えて、果たさなければならない役割さえないがしろにしてしまう現代人にとって、自分と自分を取り巻く世界にとって大切な役割を果たそうとする彼らは輝かしい存在である。
もちろん一昔前のように役割を押し付けて抑圧するのは良くないことで、後戻りすべきではない。
けれど、この社会にとって必要で大事な役割をみんながそれぞれに引き受けていくことは、この社会を立て直すために有効なのではないかという気がした。
そしてそのために必要なのが、人を思い遣るという感情の働きとしての倫理なのだと思う。


これほど倫理性が高く、そしてそれをストレートに表現した今作がこれだけ社会現象になるのは、多分それだけの理由がある。
この作品で涙できる人がこんなにもいるということは、まだまだ人々の中に倫理を尊ぶ心が残っていてそれに飢えていることの証左だ。
多くの子供たちがこの作品を観ることを喜ばしく思う。
この腐った社会に対するアンチテーゼとして、処方箋として子供たちの心に深く焼き付くことを強く願っている。
ちゅう

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