ぬ

すばらしき世界のぬのレビュー・感想・評価

すばらしき世界(2021年製作の映画)
4.5
この映画の魅力を忘れられず、劇場でも観たけどUNEXTで再鑑賞してしまった...
この映画観て遅ればせながら、役所広司のすごさに気付かされた...(そのあと観た『孤狼の血』もすごく良かった)
三上(役所広司)のささやかな表情一つで涙が溢れて来るくらい、なんというか生々しいというか瑞々しい演技ですごい。
あとキムラ緑子もすごく良くて、「娑婆は我慢の連続ですよ...」というセリフもいいんだけど、それをキムラさんの演技で聞くと本当にグッときた...
(監督曰く、映画のリサーチのために取材した元受刑者の多くが「娑婆で生きるのは大変だが、自由がある」と言っていたことから着想を得たセリフのよう)

スーパーの店長を演じた六角精児さんと監督の対談インタビューがとてもよかったのだが、その中で監督が「冷たくされることもあれば意外な情をかけられる瞬間もある。それが社会の複雑さであり、生きていることの難しさと楽しさでもある」と話されていて、確かになぁ、と…
この映画を観て似たようなものを感じた、ケン・ローチの『私はダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』、アキ・カウリスマキの『希望のかなた』などでも描かれていたことだが、どんなに社会から冷遇されようとも、ふと他者からの優しさに触れる瞬間があったりして、そしてその瞬間こそが、人生という「我慢の連続」の中にある「希望」であり、"この世界にはまだ「すばらしき世界」だと言える側面もあるのかもしれない"と思わせられるものだったりするのかもしれない。
優しさだけでは生きてはいけないけれど、良くも悪くも、その優しさには、なんとかもう少し生きることにしがみついてみよう、と思わせるパワーがある。
その優しさが、三上を娑婆の世界へとどまらせようとするし、逆を言えば娑婆に見切りをつけてアウトローの世界へ戻ることを邪魔する。
(実際の身元引き受け人の妻が、三上のモデルとなった人物へ、福岡帰省のお供にと、おにぎりと、別添えにして海苔を持たせたところ、後日「電車の中でおにぎりを食べて涙が止まらなかった。」という手紙が来たらしい。「海苔は、食べるときに巻くと美味しいからね」という、そんな細やかな優しさが身に沁みて、パリパリの海苔が忘れられません…と。現代ビジネスの『故・佐木隆三の描いた『身分帳』から辿る、旭川刑務所を出所した元殺人犯の衝突と挫折』という記事に載っていました。)
そんな、優しさだったり人や社会との繋がりを丁寧に描くと同時に、 社会に存在する矛盾したシステムや不条理も描いていて、「優しさだけでは生きていけない」という側面も出ていたところがとてもいい塩梅でした。
三上が決して裕福だったり地位の高くない、小市民の人々に助けられる数々のエピソードを見ていると、自助や共助はいいけど、「公助」はどうした、となるんだよね。
映画内では、生活保護の案内をしてくれるソーシャルワーカーの方がなんやかんやでかなり親切だけど、それだけが少し現実離れしているというか…
私個人的には、そこはどちらかと言えば現実的に描いて、そういった現実のシステムに対して一緒に怒ってくれるような映画の方が好きだなと思った。

すごく好きなシーンが多く、三上がミシンでせっせとカーテンを縫ったり、質素ながらめちゃめちゃ美味しそうな卵かけご飯を食べて新たな生活を噛み締めた表情をしたり、公衆電話で職探しをしたあと、「社会の一員」の象徴のようなサラリーマンを見つめるシーンとか、コスモスを受け取った時のあの表情とか...
児童養護施設を訪ねるシーンでは、ここにいる子どもは過去の三上かもしれないし、実際に今こうして、さまざまな事情で施設を居場所としている子どもたちが、三上のような道へ進まなくても生きていけるような社会になっているのだろうか?ということを考えさせられた。
そして個人的に、学生時代、終盤に出てくる施設での三上と同じような気持ちになることすんごく多くて、その頃に感じた「こういう"ノリ"に同調して適応することを求められる社会で生きるのはつらすぎる」という気持ちだったり、同調すれば誰かが傷つけられ続けて自己嫌悪に陥り、反抗すれば自分に矛先が向いたり状況が悪化するかもしれない、そんなことに悩んで苦しんでまで、「こんな社会で生きる価値があるのだろうか」と真剣に思い詰めていた気持ちを鮮明に思い出した。

この映画を観てしばらく、"ヤクザ(の組)"というものの社会における役割について考えていた。
戸籍上の「家族」があるからと言って、その「家族」がすなわち、精神的にも物理的にも「自分の存在を認め愛してもらえる居場所」だと言うことはできないが、今作の主人公三上は幼少期に母親と生き別れ、反社会的勢力のいわゆるヤクザの組の中にしか「自分の存在を認め愛してもらえる居場所」を見つけることが出来ぬまま生きてきて、刑務所に放り込まれた。
また、戦後の日本では、親と死に別れて孤児となったり、生き別れたりして居場所を失った子どもたちは、整備された福祉や保護も存在しない中、生きていくためにヤクザの組に属して生活をすることも多かったらしい。
私自身は力も弱く組織に属することも苦手なタイプなので、ヤクザに飛び込んでそこでうまくやる素質もない気がするが、もしもそれらの条件が揃っていて、たまたま「自分を認め、褒めてくれる居場所」が反社会的勢力の組だけしか見つけられなかったとしたら、三上のようになっていた可能性がないとは言えない。
また、男はヤクザの道があったとして、同じような境遇の女は?と考えたとき、芸者をしていたという三上の母親や、風俗嬢のリリーさんの姿が浮かび上がってくる。

ヤクザのやっていることを擁護はできないにしろ、戦争であれ、虐待であれ、親が亡くなったであれ、大人たちの事情や大人たちの作った社会の歪みに翻弄され、社会の秩序や法からも見捨てられ、それでもやっとヤクザの組という居場所を見つけた(元)子どもたちに、社会の秩序や法を守って生きろと簡単に言えるだろうか…
作中では「ヤクザ関係者の子どもは幼稚園にすら入れない」というようなセリフが出てくるが、そうして子ども世代からも社会との繋がりを奪うことこそが、子どもから「娑婆」の社会で生きることを遠ざけることになるだろう。

ちなみに、この映画を映画館で観たその時、ちょうど私は、取引先企業や社員・求人応募者の中に犯罪や反社会勢力と関わっている/過去に関わっていた者がいないかを調べる、いわゆる「反社チェック」という業務をしていたために、とても興味深かった。
自分がしている業務は、企業の信頼を損なわないために重要なことだとは思ったが、更生や再出発の可能性を奪うことに加担しているようにも思えた。

あと、少し前に読んだ『ヤクザの幹部やめて、うどん店はじめました』という犯罪社会学者の方が書いた本を思い出した...(良書でした。同著者の『だからヤクザを辞められない』も面白そう)
あまりにも感じたことが多くてとっ散らかってしまったけど、すごくいい映画だったので、ぜひ広く観られて欲しいなと思う。
ぬ