まぬままおま

すでに老いた彼女のすべてについては語らぬためにのまぬままおまのレビュー・感想・評価

4.0
全国コミュニティシネマ会議2023 in 高崎 開催記念上映会@高崎電気館にて。

「現在の風景やニュースフィルム、昭和天皇や大逆事件で絞首刑にされた幸徳秋水と菅野スガ子の写真などの映像に、中野重治(小説「五勺の酒」・詩「雨の降る品川駅」)と夏目漱石(随筆「思い出すことなど」)のテキストの朗読が重ねられる青山真治による「映画史」であり、日本現代史」(https://kobe-eiga.net/program/2011/06/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%97%85/ より)。

驚いたのは、朗読者に万田邦敏、西山洋一、大九明子がいることだ。学生がつくったら「意味が分からない」と一蹴するような作品だと思われるが、製作に「映画美学校」がクレジットされているし、同士の青山監督ということもあり参加しているのだろうー予算が少ない都合もあると思うがー。

「意味が分からない」のは、映像イメージと音声イメージが乖離し独立性を保っているからだ。映像イメージはキャストやセリフを発する姿は捉えない。あるのは、風景のショットだけだ。ただ映像イメージはグライダーや流れる水、車内の風景のように、確かに何かが運動している。音声イメージは上述のように、天皇に対する戦争責任を問う〈声〉や夏目漱石の随筆の一節を発する〈声〉である。だがその〈声〉は誰が発し、何のために、また映像イメージとの連係が一切明らかにされない。もちろんそこには「万田邦敏の」声といった主体も立ち現れていない。

そんな映像イメージと音声イメージが統合した映画を私たちがみるとはどういうことなのだろうか。私はその時、佐々木友輔監督の『コールヒストリー』を思い出した。そしてそのレビューでこのように書いた。

「映画をみることは、私たち鑑賞者がただ座っているだけであり、受動的な行為とされる。しかし〈声〉は、私たちが映画からの呼びかけに応答しないと聞き取れない。その時、鑑賞行為がもつ、一切の受動性に先立つ主体性が明るみになっていくのである。つまり私たち鑑賞者と映画は既に常に相互に働きかけて、〈声〉を呼びかけ=聞き取り、イメージを生成しているのである」

私たちが一切の受動性に先だった主体性で声を聞き取るとき、映画史と日本現代史という歴史がイメージとして現れる。その歴史はグライダーのイメージのように、9.11のテロリズムが起こった後の荒廃した世界のものだ。けれど聞き取らなければ、歴史を始めることも、飛ぶこともできない。

追記

ゴダールの映画表現も意識しているように感じて、アート系の実験映画もかつては映画美学校でもやっていたんだな。むしろそちらが源流で、現在はシネフィルが集う場所でもなく、エッセンスが忘却されただけなのか。