魚座どうし(2020)
ベルリン国際映画祭にて史上最年少で招待され PFFアワード2017に入選した
『あみこ/17』
オムニバス映画『21世紀の女の子』(/19)
短編作品『回転てん子とどりーむ母ちゃん』
上記2作品の監督を務めた山中監督
今回ndjc(若手映画作家育成プロジェクト)のメンバーに選ばれ 更に躍進されてて
一体どんな作品を撮るのか興味があって
完成をめちゃめちゃ楽しみにしていた
実際に映画を観終わって思ったのが
芸術性を前面に押し出す作品だった
小学4年生の男の子と女の子がとにかく
『大人』に抑圧されて生きている
ある種の『呪い』をかけられながら
窒息ぎりぎりの圧迫感が描かれる
少女みどりは幼少期に母親のエゴイズムに晒されて情緒不安定 そして 『父親は不在』
少年風太は信仰宗教の布教に熱心な母親のエゴイズムに晒され母親の依存心が見え隠れする中で『父親は不在』
『父親の不在』の中で母親の権力が集中し
支配力と発言権の両方を持ち合わせている
「父という病い」/岡田尊司の作品(ポプラ社)の中でもしっかり描かれてるけれど
生物学的役割や社会的役割でも
"父親"
が子どものアイデンティティ形成に計り知れない影響を与えていることが汲み取れる
少年少女は互いに心に空洞が出来ていて
虚っている様子も感じ取れる
山中監督は合評上映会の中で
>子供っていうのは大人に振り回されるものだなと考えた
と語っている
親の未成熟な部分やネガティブな側面が明らかに露呈していて
それをひた隠すも子どもは
"それ"に明らかに気がついている
教師も自身の教育スタイルを過信し
クラスの中で差別を生み出している
そこに気づかないし 気づけない
支配的な教育スタイルこそが善になっている
幼少期の子どもなりの自他の区別がハッキリしないような曖昧な感覚を鋭く描きつつ
感受性のアンテナが高く張り巡らされているからこそ親・教師への違和感も生まれてくる
ストーリー中に少女みどりのクラスで飼っている金魚が水槽を漂う中で何故か一匹だけ巨大化していく
その金魚を手ですくって窒息させようとする
少年風太は友達と魚の口に爆竹を咥えさせ
魚自体を破裂させる遊びに興じる
恐らくこの部分では
魚 ≠ 心情の肥大化・破裂
を描いていてもはや立ち行かなくなるとも考えられる
何より象徴的なのはラストシーン
「みどりが風太を押して尻もちをつかせる」
つまり「女性が男性を押し除ける」と捉えると
解釈によっては「男性」を排除するポイントでもある
ストーリー自体の根本的な「男性不在」を
裏付けるシーンとしても捉えられる
自身の感じてきた違和感があらゆるものと
混ざり合い芸術に昇華された作品だと思う
山中監督の「感覚的な感性」がスクリーンに映し出されていて何故だか美術館にいるような不思議な感覚で映画を体験出来た
また次回作も見せてほしいし『あみこ/17』もまたどこかで観たいと願うこの頃