kuu

マイ・バッハ 不屈のピアニストのkuuのレビュー・感想・評価

3.8
『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』
原題 João、o Maestro.
映倫区分 R15+.
製作年 2017年。上映時間 117分。
『20世紀最高のバッハの演奏家』と称され、事故によるハンディキャップを抱えながら、不屈の精神で困難に立ち向かったピアニスト、ジョアン・カルロス・マルティンスの半生を描いたドラマ。

病弱の幼少期にピアノと出会い、その才能が大きく開花させたジョアン・カルロス。
その才能を伸ばしていったジョアンは、20歳でクラシック音楽の殿堂として知られるカーネギーホールでデビューを飾り、
『20世紀の最も偉大なバッハの奏者』として世界的に活躍するまでになる。
一流の演奏家として世界を飛び回っていたが、不慮の事故により右手の3本の指に障害を抱え、ピアニストとしての生命線である指が動かせなくなってしまう。
しかし、不屈の闘志でリハビリに励んだジョアンは、ピアニストしての活動を再開。
自身の代名詞ともいえるバッハの全ピアノ曲収録という偉業に挑戦する。そんな中、ジョアンはさらなる不幸に見舞われてしまう。

余談の与太噺から始めます。
メタルロックを追求する、あくまでも素人メタラーの小生は、その一端としてクラッシックピアノの個人レッスンを受けてる。
お師匠さんから進められてはいないが、こないな映画あるよん位のノリで教えて頂いたのを、鑑賞してみた今作品の再視聴(最近ピアノ熱が下がってきたし)。
バッハちゃうけど、はたまた、何処からの記憶か忘れちまったけど、モーツァルトの音楽に、こないな風に書かれとったの読んだような記憶がある。
『モーツァルトの楽曲を作曲したのは彼じゃなく、彼だけが、神の作った旋律を見つけることができたんや。
嘘やと思うんなら、モーツァルトのピアノ協奏曲20番台を聴いてみろよ。』
とたしかに、モーツァルトだけではなく、バッハや偉大な作曲家たちも然り。
音楽芸術だけではなく、畏怖を覚える芸術家の天才たちも然り。
(ダ・ヴィンチとかにも当てはまるかな)
なんぼ学んでもリズム音痴な小生でさえ、天才の傑作に触れるとしびれてまう。
上手に表せませんが、ダイレクトに胸の奥にある琴線をビンビン弾いてくるなにか。
共鳴にもにたモンが染み通ってくるものがあるのが天才の芸術作品やと理解してる。
メタラーながら演歌からクラッシックまで、しがない仕事しながらも聞き続けてる小生は、烏滸がましながら、音楽の神ってのは本間と書いてマジにいるんちゃうかと最近思もてる(神は信じないので比喩的に)。
バッハもモーツァルトもベートーベンも神の遣わした使徒で、いや、悪魔に身を委ねた人もいるかもやけど、今作品の主人公ジョアンのような時折現れる神童も神の気まぐれが産み出したように思えてくる。
同じ創作ちゅうても、映画や小説なんかとはクラッシック音楽は妙に違いを感じる。
映画や小説とかは物語でありゃ、どない胸打つ作品でも、なんか人間臭さを感じるのに、音楽で傑作に触れ圧倒される時の至福や崇高さには手の届かない神々しい感覚がある。
演じ手それぞれの個性もその時々の神の気分の表れでしかないような。
そんな風に考えさせられた映画かなぁ。
扠、今作品の意図と、それを実現する方法との間には、かなりの雑音があるのは否めない。
トーンとドラマティックな側面を考慮すると、この映画は音楽家ジョアン・カルロス・マルティンスの強迫観念についてより多くを語っている。
しかし、マウロ・リマ監督が書いた脚本は、この伝記作家の性格的特徴を押しつけるような瞬間にこだわるのではなく、もっと平凡な道を選び、学校環境に敵意がある幼少期と、彼の教育を強化するための父親の努力から直線的に出発しています。
因みに、不釣り合いなほど注目されるこのフェーズでは、主人公が大人になるまでの重要な場面が時折挿入され、過去と現在を根本的に繋ぐ役割を担っている。
ある名ピアニストが、やがて師匠から離れ、弟子として、厳しくも温かいホゼ・クリアスのもとで過ごすようになるまでの過程を追う。
今作品には、そないな製作上の配慮が見て取れるし、すべてにセンスの良さが感じられました。
しかし、この便利でうまく構築された可塑性は、ジョアンの努力の幅を理解するのに不可欠な要素の一つである情熱を欠いたプロットに奉仕しているのは事実。
主人公は、ほとんどの時間をロドリゴ・パンドルフォが演じています。
ピアノのシーンの臨場感を出すには、役者が楽器を扱ったことがあるかどうかが重要やと思う。
特にヨハン・セバスティアン・バッハの楽譜を前かがみで演奏するとき、彼はジョアンの感情を伝えることに成功し、同僚たちに見られる直立した姿勢とは完全に一線を画している。
この紆余曲折の軌跡を感情的に立証する要素やエピソードを熟成させる時間がないのが残念。 
少年を偉大な存在にした事情に急接近する。
また、今作品には逆効果の妙な冷たさがある。
事故や副作用など、困難の連続は、痛快な旅を促すことなく、無味乾燥な蓄積。
ジョアン・カルロス・マルティンスの私生活も、同じように精彩を欠いて描かれている。
情報量よりも、その一部が持つかもしれないドラマチックな力を優先させることで、機能が損なわれてしまう。
アレクサンドル・ネロが演じるジョアンが成熟していく過程でも、この表面的なものに基づく旅程は維持され、不思議と蛇行が深くなることはない。
ジョアンの頑固さも、その平凡な兄弟である頑固さと混同され、原動力としては弱くなっている。ジョアン・カルロス・マルティンスを映画的に描くことで、この映画監督はかなり大胆であることが明らかにはなったとは思う。
また、今作品の大きな問題のひとつは、切り取ることの欠如、偽りのない独創的な構造への従属であり、何度も繰り返し登場する子供時代の抜粋は大した効果をもたらさないし、平凡さを例えるなら人質に取ってように感じた。
とは云え、主人公がなんたるかを垣間見ることができる作品ではある。
最も異なる発生を揃える役割を果たすものがないし、執念は、臼のような役割を果たすはずです。しかし、監督にとっては、ジョアンの体験の有機性を保証し、圧倒的な情熱とそこから派生する痛みに満ちた現実がもたらす可能性を十分に探ることなく、ほとんどすべてをソープオペラに近いメロドラマ的偏見で扱うことになっても、包括性の方が重要であるように思われる。
このような、成功もあれば転落もある経歴は、もっと知られてもいいはずだやとは思うが。
まぁアレコレと書ける作品ですし、個人的には面白い作品でした。
kuu

kuu