あじと

ドライブ・マイ・カーのあじとのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
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見終わってすぐ、とりあえずの所感。

原作は発売された当時、買ってすぐパラパラと読んだ。正直細かいことはほぼ覚えていないが、『木野』という短編が、昔の村上春樹みたいでいいなと思ったくらい。それでも、全体を通して読んでよかったな、という印象は残っていたので、映画化を聞いてからはかなり楽しみにはしていた。表題作については他の短編よりもポップなイメージがあったなぁということくらい。内容はほぼ忘れてしまった状態で映画を観た。

今回の映画は、めちゃくちゃ観てよかった。途中までは特になんともなかったが、中盤以降はほとんど画面に釘付けになっていた。釘付けになりながらも、何がこんなに面白いのかよく分からなかった。ただ、めちゃくちゃ村上春樹っぽい、という印象だけがあった。
終盤「僕は正しく傷つくべきだった」という台詞を聞いて、一気に原作がフラッシュバックした。確かこの台詞は『木野』での一節だったように思う。(軽く調べたけど多分あってた)

後から考えるに、村上春樹っぽさ、というのは本人が散々言っている「デタッチメント」が描かれていたことだと思う。傷ついても傷ついていないフリをすること、他人に対する嫉妬や恨みを見ないようにすること。それが「女のいない男」の弱さとして描かれているのが本作だった。このテーマは濱口監督ともぴったり合うものだったと思う。実際に『寝ても覚めても』など過去作を彷彿させる場面が多くあった。

特に現代ならではなのかもしれないけも、こうしたテーマは「男性性」とも強く紐づいて見えた。
村上春樹が強く支持されたのは、まさにそのデタッチメントを体現する男の態度が支持されたからだと思う。おそらく読者の男女ともに。意地悪な言い方をすれば、男の有害性を私は理解し、距離をとっています、というスタンス。難しいところは分からないけれど、戦後日本の苛烈な競争社会で豊かさを獲得した以降の世代において、そうした男性像が魅力的に見えたのはなんとなく分かる。
村上春樹自身はその後、社会・人と関わっていくために次第にコミットメントに舵を切っていくのであるが、デタッチメント男性像は村上春樹作品の代名詞的存在として原作でも顔を覗かせている。
今回の映画化においても当然その価値観は引き継がれるのだが、映画ではそこに痛烈なまでの批判的視点が盛り込まれているように感じられる。

その視点は、有害な男性像として登場する岡田将生との二項対立的に導かれる。岡田将生は、女をモノとして捉え、感情的で時に他者に対して踏み込みすぎては害を与える、典型的な「男性の有害性」を露わにする。
対する西島秀俊は、冷静で穏やかで、女を神秘的で畏怖する対象として捉えている。一見こうしたデタッチメント的な男、つまり村上春樹的男は害がなく誠実な印象を与えるようにも思えるが、この映画で主張しているのは、女を理解の及ばない、コミュニケーション不可の存在であると規定しているという点で、2人は似通っているし、同様に有害であるという点である。

映画において、そうした部分をより立体的に浮かび上がらせる役割が大きく二つあって、一つが三浦透子だったと思う。

他者への有害性と、それを自ら理解して引き受けていく、という宿命は男性固有のものではないと示していたし、最終盤にはしっかり西島秀俊を追及する場面もある。かなり具体的に言及していたのが「奥さんがただそういう人だったとは捉えられないですか?」という台詞。
男性の一人称的な視点で、女性を神秘的な畏怖の対象とし、それがあくまで女性そのものを照らすものではなく、理解が及ばない女性に去られてしまった情けない「男」、となってしまう感じ。それが男性の有害性であるという視点は原作にも近い描写はあった気がするが、そこに堂々とメスを入れる台詞が、あの場面で出てくることの重大性を感じた。それを認めることが、西島秀俊に必要なことだったと考えると、やはりこの映画において男性性は一つの大きなテーマだったと思う。

そしてもう一つが、劇中劇となる芝居であり、「演技」というモチーフそのもの。これは男性性とは少し離れるが、コミットメントの話として。

俳優という仕事は、大勢の人前に立ち世間の注目を集めるという点において、人との関わりを制限するデタッチメント的な立ち振る舞いとは正反対に思える。だが、その俳優たる所以の中心にある「演じる」という行為だけをとると、それは自分とも他者とも距離を取る行動(デタッチメント)の最たるものでもある。

傷ついていないフリ、嫉妬を見ないようにすること、それはいわば「演じている」ということ。つまり、「演じる」ことはデタッチメントを示す象徴的な行動としてこの映画では描かれている。主人公はそうしたデタッチメント=「演じる」という行為・態度こそが妻を失うきっかけになっていたことに本心では分かっていながらも、物語の終盤までそれを受け入れることが出来ておらず、それを突きつけられることこそが、この物語のクライマックスとして設定されているのである。

主人公が強く「演じる」という行為を信用していないような指導を行っていたのもそうした意識の表れだったのだと思う。中盤以降の本読みのシーン、車のシーンで繰り返される「棒読み」は、「演じること」を頑なに拒絶している態度のようにもとれ、デタッチメントの否定を象徴しているように感じられた。(それで言うと奥さんの演技もちょっと不思議なくらい常に棒読みであった。)

そうしてデタッチメントによる無力感を引き受けた主人公が最後に取る行動は、舞台に立つこと。デタッチメントを突き放そうとして選び取る行動の中心に、「演じること」が配置されているというのは、完全に映画化の過程で生まれた面白さである。
それでいうと、岡田将生が映画から舞台を消し、二度と戻ってこないのは少し納得がいかなかった。彼にもう少し何かしらの結末をつけてあげてもよかったとは思う。

とりあえずはこんな感じ。あとは思いついたら。
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