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AGANAI 地下鉄サリン事件と私のkyokoのレビュー・感想・評価

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26年前の今日、まだ携帯がなかった時代、田舎の親が心配して会社に電話してきたことを覚えている。都心では一日中サイレンが鳴り響いていた。

多くの人を巻き込んだこの事件の被害者であるさかはら氏とオウム真理教(現・aleph)の荒木広報部長が対話しながら故郷に帰る。お互いを理解することで、動けない場所から一歩前進するための旅なのだと思っていた。

川辺で水切りして遊んだり、服を選んだり、旧知の友のように見えるふたりの会話が徐々にすれ違い出す。何か違和感のようなものが膨れあがってくる。
さかはら氏のご両親がお目見えしたところでそれは頂点に達した。信者だったという結婚相手の話はズレまくりとしか言いようがない(ご両親に対する荒木氏の必死のフォローがちょっと笑えた)。

本来ドキュメンタリーの作り手は第三の目となるべきだと思う。観るものを置き去りにして、当事者の主観だけが一人歩きしてしまったら、それはもはやドキュメンタリーではない。

さかはら氏がこの旅に求めていたものの正体が完全に露見したとき、どうやらこの人は我々に何かを委ねる気はひとつも無いらしいと気づいた。そこは森達也作品と大きく異なる。

被害者の苦しみに対して違和感どころか嫌悪すら感じてしまったこと、よりによってこの日であったことに落ちこんでしまった。
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