Fitzcarraldo

コーダ あいのうたのFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

コーダ あいのうた(2021年製作の映画)
5.0
第37回サンダンス映画祭(2021)グランプリ・観客賞・監督賞・アンサンブルキャスト賞の史上最多4冠を獲得し、世界配給権のきな臭い争奪戦が勃発した結果、金に物を言わせた一大リンゴ企業がサンダンス映画祭史上最高額となる2,500万ドルで落札した史上初尽くしの作品。

フランス映画"LA FAMILLE BELIER"(2014)邦題『エール!』のリメイクで、CODAとは"Child Of Deaf Adults"の略語で、【ろう者の親を持つ子供】という意味。

Codaとは楽譜の反復記号D.C.またはD.S.したあとにto CodaからCodaへ飛ぶ記号のことかとずっと思ってた…

だから主人公は歌うのか…と阿呆な勘違いをしていた自分が恥ずかしい。すでに何人かに楽譜の方の間違った説明をしてしまった…。訂正しなくては…

毎日毎日、繰り返し漁に出て親の通訳をしていた世界から、親元離れて新しい世界へ飛ぶ!と捉えれば、to CodaからCodaへというのも、あながち間違ってはいないか…ちと強引すぎるか。


リメイクの監督と脚色をしたのは、本作品で間違いなく女性監督の急先鋒に立つであろうSian Heder。

シアン・へダー
「耳の聴こえない人の役があるのに、耳の聴こえない優秀な役者を起用しないというのは考えられなかった」

これは最もな主張だと思われる。

どんな名優が手話を習い、遜色なくろう者になりすましたとしても、カメラ前以外は普通に話してると考えると…そこは一歩も二歩も引いてしまう。

そういう余計な雑念が入り込む余地が寸分もないというのも、スッと素直に劇中に没入できた要因であろう。

そして何よりも感情を表情に乗せる豊かさと、そこに連動した手話の美しさに大いに感動した。

シアン・へダー
「アメリカ式手話は"悲しい"と伝えたいときに、本当に悲しそうな顔をしなければ伝わりません。実際にその感情を体験し、その瞬間を生きなければ伝わらないコミュニケーション法だと思います」

これが美しさの源だと思うし、コミュニケーションの原点なのではないかと思う。

だからこの家族のやり取りを見てるだけで恍惚として見惚れてしまう。声を発する言葉以上に、彼ら彼女らを見ているとより多くのことが伝わる。

シアン・へダー
「現代人は、言葉が体から切り離されているような気がします」

言葉が体から切り離され、さらにその体さえも現実の世界から切り離されていっている気がする。仮想空間の中へ…SNSの中だけで生きてるような人が増えてる気がする。

とあるお店で遭遇したのだが、カウンターで横並びになった初対面のおばちゃん同士が、店員さんの仲介も手伝って、インスタを見せ合い盛り上がっている。終いには、互いにフォローし合い、目の前の当人を無視して、互いに互いの投稿写真を見てまた盛り上がっている。

なんだこれ…

若い層から中年層に至るまで、まぁよく見かける光景であるが…これがなんだか非常に気持ち悪い。それで目の前の当人とコミュケーションを取ってるつもりだろうけど…

なぜ話せて、聴こえて、同じ言語で理解もできるのに、Instagramの写真をメインに交流するのよ?

Daniel Durant演じる主人公の兄レオが、妹の友達がバイトしてる飲み屋でコミュケーションを取る時に、レオは話せないし、その女の子は手話ができないから、お互いが理解できる文字でメッセージを送り合う。
スマホの中でしか、やり取りする方法がないからやっているわけで…

なぜ話せて、聴こえて、同じ言語で理解もできるのに、Instagramの写真の中で交流するのよ?

なんか気持ち悪くないか?

これをオッサンだからとか、古いタイプだからと切り捨てられるのも仕方ないのだが…

古いタイプのオッサンからすると、劇中の家族たちの血の通った真の交流を見てるだけでホッとあったか〜い気持ちになる。

これがコミュケーションのはず。

そのコミュケーションの中心にいるのが、家族の中で唯一の聴者であるルビー。
演じるのは"Next Emma Watson"と云われるEmilia Jones。

このNextなんとかとか、次世代のなんとかとか、なんとかに二世とかいう誰が考えたかわからんチープな呼称はやめてあげたら?本人はそんな積もりさらさらないでしょ?


本作はルビーを演じたエミリア・ジョーンズがとにかく素晴らしい。

エミリア・ジョーンズ
「歌のレッスンを受けたのも今回が初めてです。歌は大好きですが、プロとして歌を歌ったことは一度もありません。Fleetwood Macの"Landslide"という歌のギター弾き語りでオーディションに挑みました」

先ずフリートウッドマックを選曲するという趣味の良さ。さらにバークリーの音大に推薦されるくらい歌が上手くないといけないというハードな設定を、軽々と飛び越えるほどの説得力のある素晴らしい歌声。

物語どうこうの前に、単純に彼女の歌声には人を惹きつけるチカラがある。

歌の選曲もいいし、彼女の歌声だけでもスクリーンで見る価値は十分にあると思う。

学生時分や若い時は、カラオケで超絶に歌が上手いとそれだけでモテてる人がいたと思うが…それだけ歌声というのは聴衆を引き込む妖力みたいなものがあるのだと思う。

残念ながら歌がド下手な自分には、全くその能力が備わってなく、幾度となく辛酸を舐めることになるのだが…。

なので歌が上手い人には憧憬しつつ羨望の眼差しでも見てしまう。

さらにエミリア・ジョーンズの手話がまた素晴らしい。私が手話話者でもないので、手話の上手い下手は正直見分けられるわけがないのだが、彼女の表情がね、感情がダイレクトに顔と手話に乗っかってるというか…

シアン・へダー監督
「アメリカ式手話は"悲しい"と伝えたいときに、本当に悲しそうな顔をしなければ伝わりません。実際にその感情を体験し、その瞬間を生きなければ伝わらないコミュニケーション法だと思います」

繰り返しになるが、やはりこういうことなんだと思う。ある感情を実際にその瞬間瞬間に体験して生きているからこそ、それがスクリーンを飛び越えて、こちらにも伝わるのだと思う。

スクリーンの中のto Codaから、私の心へCodaするように…


このアメリカ手話はASLといい、世界の共通言語が英語であるように、手話の世界もASLが多く使われているという。

"ASL"はAmerican Sign Languageの略称

音声の英語を、そのまま手話に変換しているのと思っていたのだが、一般的な英語文法とは全く異なる独立したひとつの言語なんだとか。

アメリカ手話にはareやtheなどの冠詞がないので、英語では「What’s your name?」ですが、アメリカ手話では「you,name,what」となる。

文法すら真逆のものを、瞬時に手話で訳しながら、さらに表情に感情を乗っけて、コミュケーションしながら会話していくって…エミリア・ジョーンズは一体いくつのものを背負いながら演じてるのよ…

まさに同時通訳のようなことをしながら、その上で芝居までしなきゃいけないって…これものすごい大変なことだと分かるかな?

エミリア・ジョーンズ
「ルビーはとても複雑なキャラクターなの。彼女は2つの世界に関わっているけど、どちらにも属していないように感じている。家族と一緒にいるときは、幼い頃から両親のために通訳をしてきたため生意気だけど、学校にいる時はちょっと変わっているという理由でいじめられることもあり自信が持てません。2人分のキャラクターを演じているようで楽しかった。そしてもちろん、手話や魚釣りを学んで、さらに自分のボーカルスキルを高める機会を与えられた事は、本当に素晴らしいことでした。大変だったけど、私は挑戦するのが大好きなんです」

いかに大変だったかを噯にも出さずに軽やかに乗り越えてたエミリアを賞賛したい。

エミリア・ジョーンズ
「家族へのラブレターのような映画」

と本作を評すそのセンスの良さに今後とも彼女を応援したい。


そして、いつまでもこの家族を見ていたいという気持ちにさせてくれるロッシ家の面々がまた素晴らしい。


ルビーの父フランクを演じたのはTroy Kotsur。

トロイ・コッツァー
「シアン・へダーは本当に素晴らしい監督です。私はこれまでに、映画、テレビ、演劇、舞台と、いろいろな作品に出演してきたけれど、通訳なしで会話できるようになるために手話を積極的に習う監督は滅多にいませんでした。彼女が通訳を介さずに私たちと直接コミュニケーションをとってくれてとても嬉しかった。彼女とはよく一緒に冗談を言って笑い、場面や状況について充実した話し合いもできました。
 これまでは聴者の俳優にろう者を演じさせてきました。手話を知らない聴者は役を演じることができても手話がめちゃくちゃに下手なんです。これをきっかけに、いくつかの扉が開かれて、みんながもっと偏見のない心を持てるようになればいいなと思います。
 私たちは、ただの人間だということ。私たちは手話で話をしているというだけ。それだけの違いです。この作品は、耳が聴こえる人たちにも聴こえない人たちにも、みんなに訴えることができる。誰でもこのプロジェクトに関与できる。だからこの映画は素晴らしいんです。
 私は幼い頃、耳が聴こえる家族の中で育ちました。両親がなぜ笑っているのかわからなくて何を言ったのかよく聞いていたし、私が両親とは違う時に笑うことがあり、なぜ私が笑っているのか両親が不思議がることもありました。この映画では両方の世界を見ることができます。ろう者が聴者と一緒に笑ったり、同じ感情を抱いたりするのが見られる。それに字や声を使っていない秘密のシーンがあって、耳が聞こえない方が先に笑える場面もあるんですよ」


ルビーの母ジャッキーを演じたのは『愛は静けさの中に』(86)でアカデミー賞主演女優賞を獲得したMarlee Matlin。

マーリー・マトリン
「シアン・へダーは本当にうるさい監督でした(笑)でも死ぬほど大好きです。彼女には頭が上がりません。素晴らしい女性であるだけでなく、この作品の監督として、コミュニケーションやアメリカ式手話や、ろう文化の大切さをしっかりと理解していました。私たちみんなと物語について、キャラクターについて深い会話ができるように手話を習得していたんです。そして私たちのことを心から信頼してくれている。自分の作品を信じているのと同時に、私たちの仕事も信じてくれている。彼女だからこそ、今回の企画が実現できました。
 この映画は、世界中のろう者の人たちの存在を知り、彼らの声に耳を傾ける良い機会だと思います。私たちは聞こえないからといってすべてをあきらめるわけではありません。私たちは実際にこうやって生きているんだと言う事実を知って欲しい。世界中に難聴者や、ろう者はいっぱいいます。
 今までの映画のように耳の聴こえる俳優が聴こえないふりをしているのではない。本当に耳の聴こえない人たちが出演しているんだ、だから真実味があるんだ、彼らはこの作品に不可欠なんだと感じてくれるはず。
 この映画を見た人に、この映画に登場するような耳の聴こえない親を持つ子供が、実際に存在すると言うことを知ってほしい。私たちの生活に手話と言うコミニケーション手段が欠かせないのだということも。それに、同じような物語は山ほどあり、毎日のように起きている。この物語を皆様と共有できる機会を大変嬉しく思います」


ルビーの兄レオを演じたDaniel Durant。

ダニエル・デュラント
「この家族には聴者の娘がいて、聴こえる世界と聴こえない世界を行き来する。この映画に出演し、僕でさえもCODAの経験についていくつか学びました。僕自身も耳が聞こえない世界で育ちましたが、この映画を通してCODAの異なる視点を知って驚きました。CODAの経験というのはかなり独特なんです。それでもエミリア・ジョーンズが演じたようにCODAが持っている、ろう者の文化的アイデンティティーは、自分が誰なのかということに深く結びついています。この映画はそういった部分に光を当てて、観客とこの視点を共有する点が素晴らしいんです。
 エミリアはアメリカ手話の使い方や歌を学ぶ必要があったし、その他にも多くのことを学ばなければなりませんでした。一生懸命やっている彼女の姿を見て感動し、毎日彼女のエネルギー溢れる姿を見るのも楽しみでした」


彼らの言葉が全てを物語っている。
またロッシ家に会いに行きたくなる。



ルビーのライブの見せ場というところで、長い間…無音にしたのは素晴らしい演出だった。並の監督には絶対できないであろうチャレンジングな演出だったと思う。

練習で何回も同じ箇所を歌い、我々見ている側に、さりげなくメロディを脳裏に擦り込ませたのは、ここで無音にするための戦略だったのか…これは見事なフリである。

恐らく並の演出家なり脚本家なら、この娘の晴れ舞台を無音にするような演出はしないだろう。一番の見せ場に敢えてろう者の立場に我々を引き込む無音の世界。

この世界で彼らは生きている。

この張り詰めた緊張感…
胸が締め付けられる。


そして、ハイライトは…
兄妹で本音で語り合うシーン。

家族会議で仕事に残ると決めた妹に、烈火の如く怒りだす兄貴の姿勢に涙が止まらない!

さらに海辺で、兄妹の口が悪い手話の応酬にやはり涙が止まらない。

私にも妹がいるからなのか…ここは堪らなく感情移入してしまった。


親父が夜空を見上げながら、もう一度、俺のために歌ってくれと…そして自分の指を娘の喉元へ優しく触れるところも…やはり泣いてしまう。

前半からラップが好きだと…それはお尻が振動してイイんだと…このフリがめちゃくちゃ効いている。
頓珍漢なオヤジ像が一気にここで反転する。もちろん音は聴くことはできないのだが、せめてその振動だけでもと…あぁ泣いてしまう。

お尻の振動でラップを好むくらいに、お父さんは振動に敏感なのだ。

だからこそ、娘の喉元に優しく触れるのがグッと堪らないのである。


なぜルビーの母は全く話せないのに、やかましくて口うるさい私の母のように見えるのか?

話せないはずなのに声が聴こえてくる。

自分の母親の声が、自分の心に直接訴えているかのよう…不思議である。


ルビーの親友が簡単に兄貴とくっついたり、竹中直人のような暑苦しい芝居をする先生とか、少しオーバーな点もあるが、その辺はご愛嬌。そこまで気にならない。

この先生は、私の好きな役者である加藤善博氏に雰囲気が似てる。くどくて少しオーバーだけど気になる存在感を出している。

しかし音大の試験ってオーディションなの?面接とかもないのかな…?

卒業生だからと、伴奏を買って出るのはムムムだし…音大側もOKなんだ…

「バークレーのために初見でも歌える練習しよう」というセリフなかったっけ?
それって試験では初見で歌わなきゃいけないってことじゃないの?

持ち込んでるやん!
伴奏の先生まで…

これは字幕の問題なのかしら?


実際にCODAの日本人の方がYouTubeの動画で異を唱えていたのだが…いまは聾唖者とは云わないと。

唖とは話せない人という意味で、手話を使って話してますから!それには当たらないと!

さらに健聴者とも云わない。健康の健の字をあてることはどうなんだ…と。
いまは聴者という…と。

アメリカの製作陣は、ASL監督(DASL)を迎え入れ正確に描く責任を全うした。

DASLとは、ASLマスターとも呼ばれ、演劇の経験が豊富で、ろう文化や歴史を理解している人物のこと。作品の時代、地域、出演者の性別に応じて、どの手話が1番ふさわしいのかを決定する。

日本語字幕のスタッフには当事者のアドバイザリーを入れてないことによる認識の低さが出てしまったのかと…アメリカ製作陣との意識の乖離を指摘されてた。


因みに…音声の日本語と日本手話も全く違う言葉らしい。

日本語の音声に手を付けた表現は…
日本語対応手話というようだ。



日本でもヤングケアラーの問題が報じられたりしてるので、こういう素晴らしい映画によって個々の意識が少しでも変わることを願っている。
Fitzcarraldo

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