ニューランド

ポルトガルの女のニューランドのレビュー・感想・評価

ポルトガルの女(2018年製作の映画)
4.2
☑️『ポルトガルの女』及び』『恋する遊園地』▶️▶️
一度書き上げて下書きに留め置いてた状態で、なぜか消えてしまったが、映画祭で既に書いてたつもりだったが記入が漏れてた真の傑作は何らかの形で遺しておかねばと、覚えてる範囲で。2年前は、4.0を付けたが、再見し少しは理解進み0.2点上げたい。
女性作家による映画というのは、その数·レベル共に映画全体のメインを張る事も普通で、今や別に取り立てて語る事でもなくなったが、今回作者本人のコメント映像がくっついてて、片方があまり要領を得なくて、もう一方が自信に満ちてて、男性監督の平均的なそつのないのとまるで違い、興味を惹かれた。特に前者については、まごうことのない傑作である事は、2年前確認済みだったので、その気まぐれがアーチストというものかな、と我々と違う種族を垣間見た気がした。それに反し、特異さを普遍に近付けたと言い切った方は、自信·野心と違い中身は普通の商業映画トーンでこちらは別の意味で戸惑った。
デジタルも究められると、フィルムのこくあるトロ味を削いだような、澄みきった微細な白い霜が生じたようなキレ·細密清潔感を感じ続ける。古来からのパースペクティブ基軸も巾を効かせられないような。長回しフィックス感を受け続けるも、そういった長く据えて見せればというシーンでは、いつしかノロノロとフォローに懐ろ深く入ったり、手前死体累々を見に行くのにティルトして更に寄り望遠を複数回挟んだり、深い息·空間レベル切返しやどんでんを示したり、する。そうでなくても、ヒロイン中心に、速く激しい馬上のフォローや·CU顔·その振り向きが、いきなりめ·ポンと素人の思いつきの様に畏れなくはいる。「成就」の経験のロッククライミング等寄りや角度変が辿々しく繋がる。頑固なフィックス+長回しへの拘りが、厳とあるわけでもなく、軽いパンや回り込み移動、角度やサイズの変化のカット割りも、抵抗なく取り入れたりもしてる。が、印象はどこかにスタイル徹底意識を伝えくる。画面内の小さめエリアから抜け出·或いは隅に固まった位置で、周りや奥の自然や人と交感しあってる事等が、その印象を強めてゆく。今風の限度を越えた実際の形としては、主人公夫妻が間を仕切っての桶風呂に入っての下々も上衣を巻き付け·桶から出して·仕切りを外す辺のモタモタ、等の描写が、意味もないのにいつしかのフィックス大長回しだったりする。それでも、妻に下々を集めて紹介とか、司教の廻りに集まってる重鎮ら、の贅肉もないスッキリ世界を具体的にも抽象的にも一目で纏め上げられるようなビジョン=ルックの感覚的·思索的ショット取りの才は圧巻ではある。薄っぺらく平板で、同時にストーリーにはまるにはあまりにクリアで力が均衡した·世界が息をのむ美しさも感じさせつつ展開してゆき、安心や拠り所を失い、その全体の愛おしさに何か、最も自然なものを感じてくる1作である。観てて、それでもなんとなく、すぐに直感してくるのが、オリヴェイラ+ドライヤーの宇宙に類するものである。
中身的にも、こちらが歴史に疎いせいもあり、時間·宗教·戦争等関する概念がまるで整理できないし、しかしそれがそのままで極めて魅惑的であり、刺され擽られ、知らず高められんとするものがある。ポルトガルから妃を連れ帰ってる、北イタリアかの封建領主が、妃を故郷に置いて、トレントの司教との土地を奪い合う戦いに遠出してゆく。途中生まれた子供の確認に戻って来たりもあるが、好んで戦いに興じる場に留まる。軍も郷も疲弊し、10年を越えた時点で、司教と休戦を約し、途中得た病で故郷で死に瀕してく領主。留守中、環境の劣化にも居心地を見出だし、ポルトガルの従兄学生の滞在にも楽しみを見出だしてた妃。病の夫に寄り添いつつ、無理は強いず、夫を自然体で復活もさせ、より衰退の全体を別の手応えを育てつつ、生きてゆく。
なんて書いたが、どういう話なのか、ピンとくるものはない。10数年の経過が、故郷·戦場を行き来や、子供の成長·増え具合で示されてるもしてるようだが、あまり説得力はない。トレント司教との謁見?和解のシーン入れは、回想か時制入り繰り叙述なのか。I·カーフェンは冒頭の歌う姿や、編中の画面構成の一部を成してて、一族の一人なのだろうが、全体のピースの一人と云うにははみ出してる。他にも、領主が妻の衣装を分け与え·対抗感を示してくる女とか、領主の病いに預言的サジェストをする等知恵袋的年配の女ら、そういうタイプが散りばめられてるが、その最たるは、環境に適応·馴染んでってるようで、エキセントリックな本質をドラマを超えて、輝かし射し込んでくる妃で、ラストをトップのカーフェンと対応すべく、半現代的な歌う姿で括ってる。彼女の内の現れのひとつの、狼や猫への成長前からの一体的愛着、それに対する社会·宗教的な当然·傲慢な葬りと、わだかまる絶体の根の沈澱。
絵のフォルムに音は割り込みもし、扉に面して、鳥が急に飛び立って、等々、思わぬ強く激しい音が起こるか沸き立つ、繰り返し不意に、その次の事態は大事でなくも、その音自体が激しい世界の本質を割り伝える、刺激として。鳥らを捉える続くカットは、カット自体が揺れ動くを迷わない、珍しい形にも。
「この家系は、戦う男、止むことのない。貴族の立ち上がりと呼応し、司教·司祭の土地から、割り戻すのに立ち上がるを超えて。故郷の民ら(世の趨勢)は、商い·金の為に向かい、その町になってく中」「この館·使用人も欠け落ち、売り払い、修復どころでは。それでもその中で。戦争は多大な金を要してく」「(戦いを止めての)平和は、腐敗と堕落をもたらす。連綿と続き果てない。戦ってる間は避けられたものが」「その夢の、小動物は神の化身かも(悪魔であっても、同様か)」「この異教徒のポルトガルの女め」「戦いであらゆる旧知の顔が欠け、失われていったことに気づいてゆく」「このうちも、物も人もいつしか主だったは皆、消えている」「快癒の方法? それを(具体的に)口にする事は、もう効果から離れてゆく。何とは云えぬ、何かを成就する事」
---------------------------------------------------
『恋する~』を観てて自然思い浮かべたのは、機械と人間の生殖を描いた『デモン·シード』で、突き抜けた明るい括りは『バック·トゥ~』を思い起こさせた。それくらい、俗っぽく·即物的で、このテーマ·この女優を得て、可能な内省の意味を煮詰める方向の舵を取れなかった。もう少し、脚本も撮影も、一般的な映画発想を離れてくれてたら。作者が実際に取材·ヒントとしてゴーサインを出し得たという、エッフェル塔に恋したのは普通の女性、という発想(現実)の方が、遥かに魅惑的だ。
テーマパーク·遊園地にのみ親しんできた、自閉症気味の娘が、そこの夜間清掃の職を得る。新アトラクションのムーブ·イットなる巨大マシンに惹き付けられ、深夜もあって、意志の疎通も出来てきて、異性からのオーガニズムを生む絡まりにも至る。彼女を愛し完全管理する、自分は男性に奔放な母、彼女を自分の恋の対象に決めつけてる職場のボス、は共にそれを「病い」と決めつけ、機械の廃除を実行する。「魂·愛·(恋の対象の)存在·命」を感じ·信じれるか、決定的な亀裂。ヒロインを唯一理解する、母の新パートナーは母を説得し、人と機械の結婚式を、最後まで邪魔が入る中、挙行す。
それにしても、様々な色彩·光や体液的油漏れの交錯躍動と、自室の細工·小からパークの大までの命もどきとスリリング。ハッピーなラストひとときの味わいも含め、観てる側はかなりはぐらされ感。しかし、作品を超えたものを追う、この主演女優の、遥か先を視る目力·引き締まり贅のない表情は、彼方に向かい得てる。そしてそれは嘗て確かに手にあり、活かしたいと願ったものを想起させた。
ニューランド

ニューランド