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彼女たちの物語のニューランドのレビュー・感想・評価

彼女たちの物語(2018年製作の映画)
3.5
☑️『彼女たちの物語』及び『フローズン·アンブロシア』『ヘラの天子』▶️▶️
短めで公式的で、センセーションは呼ばないが、地道·着実なドキュメンタリーを、やはり日を挟んで続けて観る。
さっき観たばかりは、ルクセンブルクを中心として20世紀初頭から1970年代、更に今の女性解放運動を、当時のフィルム発掘と現存者インタビューで描いた、『彼女たちの物語』。優れているかどうかは別にしても、姿勢と素材の真摯さ(ボーヴォワールの言葉引用掲示等、洒落てもいるが)、貴重な映画である。そもそも、高齢の激動·忍耐·活動の時代を潜ってきた女性の回想や意見の語り記録の現在パートはともかく、本作製作前に既に存在してしてた、1960年代後半以降の運動·集会·活動に加わったカメラが捉えた記録と、それ以前の学校·家庭·儀式·集い·逢瀬に関する明確な主張に基づかぬ記録の部分では大きな隔たりがある気がする。後者は前半をモノクロやカラーのスタンダード画面で多くを占め、当時はスーパー8か16ミリか知らないがムービーカメラ自体が誰もが持てるものでもなく、被写体も限定されていた訳で、語ってる貧しく保守的家庭出の人たちとは別世界のことも多い。只、話してる内容とリンク、よくも類似·関係場面を集めたものと感心する一方で、画面の中の女性たちは、当時ははしたないとされることにも、抵抗なく·時に積極的で、繰り返すが·話されてる内容と対立する場面も少なくない(それすら、奔放な上流男性に振り回されたものかも知れないが)。
それでも女性が参政権を男と同様に手にして以来、それが実体化するまで(五月革命で大規模化する)左翼闘争と溶け合った闘いを経て欧米でも半世紀以上を要した事(以降いまに至る、享受当たり前、闘争忘れ、自由な分·確たる未来の安定の喪失、の危惧、たゆまない闘争の持続の必要が続くが)、女性の途の選択肢なくある意味確定はされてるも、あまりに弱体で細かったことに改めて驚く。学問を続ける事への冷たさ、ラテン語を治めての社会中枢進出の一部以外は、家庭科や商業科の割りのいい結婚求めての就職、それも結婚は男性への支配下·隷属を意味し、職は手離さなくてはならぬ。そもそも自分の身体への自らによる決定権·自由がなく、意に沿わぬ妊娠も宗教·法律·家が自由な処置を阻む。
子供の頃、ウーマン·リブが叫ばれ、奇異な行動にしか見えず、何で今更と思ったが、いざ、自分が就職すると、女性の地位·一般意識の低さ、を実感し、日本は何て国なんだと思わざるを得なかった(その分、無能な私は有能で無私の女性に支えられて、やっと社会人足り得てたが)。
女性はそもそも逞しいのだからとか、韓国に対しても近代化へのインフラをしてやったのは日本、といった私の出自や職場は下層なのでよく耳にするが、精神·魂への永年負わせ続けた傷は償えるものでもない。
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前日、出勤前の空き時間を埋めるべく観たは、ギリシャの雪山の魅惑を中心としたスーパーなしの『フローズン~』と短編。英語をまったく解さないのでチンプン~だが、同じ愛好者(以上の)らの語りや広角や大L·フォロー移動のスキー滑走をウリとしながらも、併映の短編が、日常の仕事から終末のギリシャ高峰スキー征服の伸びやかさ·美しさへの、弾み·解放·同志感を謳いあげてたのに対し、こちらはフィルム·デジタルのカメラの装填·特性(ブラッケージ·スコセッシばりのコマや半感光·パーフォレーション絡みの図も)、機材積込から道路行、現地のスキーばかりでなくリフト乗りや足での踏みしめ(ロー)の過程や積上げ、同じ赤い屋根の家群の街や遺跡の丘がすぐ眼下、海面と高峰のいきなり隣接、剥き出し崖と雪山の端境、空雲陽山の各々のの原色のうねりと仕切り並び、突如の音と雪崩·稲妻·降雪の激しさ·変異、地図上移動や空撮·早回しやワイプらの処理、らの異なる次元と世界の隣り合わせ·大小レベルリンクを、不可思議素直に言葉に出来ない有機性で描き、厳しく魅惑的な世界の本質と同質の「スキー·ムービー」概念と一体化してる、見かけによらず骨ある作。
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