らんら

沈黙のパレードのらんらのレビュー・感想・評価

沈黙のパレード(2022年製作の映画)
2.7
観終わって暫くしてから「沈黙のパレードってそういうことか」と気づきました。

原作小説は未読なのですがこの映画、もしかするとアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」へのアンチテーゼ的な作品なのではないでしょうか。

映画の内容としては地味。「容疑者Xの献身」や「真夏の方程式」には映像、トリック、動機、役者、全ての要素で劣ります。
2週間後には忘れてそうな内容だし、これならわざわざ映画じゃなくてスペシャルドラマで2時間の枠とって放送するのでも良かったんじゃないのかなと思います。




⚠️ここからネタバレありです


ただ、新鮮で印象的だったのが、被害者の並木佐織が実は周囲が思っている程「いい子」ではなかったという点です。

この映画は「復讐劇」を皮肉った作品なんだと思います。

並木佐織を慕っている周囲の人間達が勝手に彼女を神格化し、勝手に復讐劇を始めます。

中盤まで並木佐織と周囲の人々の復讐劇を美化していますが最後の最後で彼らはみんな自分勝手に行動していたということが分かるのです。

死んでしまった者が何も言えないのをいいことに、残された者は自分たちの良いように解釈したりすることがある。
並木沙織を好いていた人は彼女を聖女のように良い子だと記憶し、逆に彼女に対して後ろめたいことがある人は彼女を嫌な女だと記憶している。

遺族や身内の記憶の中(回想シーン)での並木佐織はもうそれは良い子で、それこそ聖女のように描かれています。
けれど終盤、事件の真相が分かってきた時点で、彼女の死に関与した新倉留美の回想シーンでは並木佐織がなんだかやけに嫌な女に描かれているのです。

本当の佐織はどちらなのかというと、結論どちらも本当の彼女ではありません。なぜならいずれの姿も彼女の周りの人が勝手に価値づけた記憶の中の産物だからです。

そう考えると、この復讐劇自体がそこまで良いものではないように思えてきます。

アガサ・クリスティのように、すっきりした感動の復讐劇を描くことも出来たのに、最後の最後で何故わざわざ並木沙織の嫌な姿を描いたのか。
もしかするとこの物語は世で美化される「復讐劇」を否定したかったのかもしれません。


「沈黙のパレード」というタイトルですが、
死人に口なしと言うように、亡くなった人は沈黙します。
しかし残された周囲の人々は自分たちの物差しで勝手に故人を価値付けして祭り立てたり騒ぎ立てたり、或いは復讐をしたり。
主役が黙っていてもパレードは勝手に進行していきます。

「沈黙のパレード」にはそういった意味も含まれているのではないかと深読みしたりもしました。
らんら

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