北アイルランド問題に巻き込まれた自身の幼年期の体験を基にフィクションを織り交ぜながら紡いだSir Kenneth Branagh脚本/監督作。
宗教に馴染みがなく且つ宗教に対する教養もない門外漢の私からしたら、「カトリック」と「プロテスタント」というカタカナを同時に並べられても、咄嗟に理解できない。
どちらが何を信じて、またどこに違いがあるのか?その歴史的背景は何なのか?を、そのカタカナが字幕に現れる度に思惟してしまう。考えを巡らせてるだけで、答えを知らないから意味はないのだが…
読めない漢字をすっ飛ばして先へ進んでも全く平気な人もいれば、その読めない漢字に引っかかりモヤモヤして調べて理解してからでないと、読書が進まないタイプと分かれると思うが…
後者のタイプである私は、カトリックとプロテスタントに引っかかり、そこから先へ集中して入り込むことができなかった。
しかも、この北アイルランド問題は元々の根が深いので、パッと調べてハイ終わりということでもなく…おいそれと容易く受け流すことはできない。
Jude Hill演じた9歳のバディと奇しくも同じような立場で知見することになるとは41歳の自分が情けない。
1969年の北アイルランドのベルファストにて突如として襲われたことで、通りにはバリケードが築かれ、夜は自警団が周囲をパトロールする厳戒態勢へ。
疑問だったのは、プロテスタントやカトリックは、普段から共に集って暮らしているの?そういうコミューンが地域として明確に分かれているの?ここからここはカトリックの人が住む通り、ここからはプロテスタントというように…そんなことないよね?
別にバラバラでしょ?住むところなんて…
例えばプロテスタントの賃貸オーナーはカトリックの人には家を貸さないの?そういう人もいるかもしれないけど、みんながみんなじゃないよね?人種の差別はありそうだけど…もともとは同族でしょ?
目に見えない信仰のことまで審査の対象にはしないでしょ?家を貸すときに…
その前提のもとだと、このバリケードの中に住んでる人は…?キチンと住み分けできてるの?それはたまたま?この地域に集まってくる特別な理由があるの?
攻める方も、同族の民族同士で見た目に変わりがないのに、どうやって相手の信仰を見分けるの?それは住んでる場所なの?住んでる地域によって区別してる?
単純にバリケードを築くことで、私たちは●●側の人間です!と、アピールしているように見えてしまったけど…。
自警団がパトロールしてたら、対立側から見れば余計に攻め込みやすくなっているのでは?
壁をつくることによって、よりそれが対立を煽ることにも作用してしまうこともあるのでは?
トランプが散々っぱら言って分断を煽っていたメキシコとの国境の壁のように…
コロナ禍のなかで撮影ということもあり、ベルファストの街中では余り撮影もできず、イングランドのハンプシャーにある国際空港の滑走路の端っこを借りて、そこにベルファストの通りを再現したオープンセットを作ったそうな…。
しかし、わざわざ手間とお金をかけて作ったベルファストのオープンセットなのに、狭小邸宅というか…街全体が、こじんまりとした印象を受けるのだが…それは狙いなのか?バリケードを作らざるを得ない状況だから、敢えて狭い世界を演出してるのか?
話に対して随分と狭苦しく感じてしまった。映像の良さを使えてない、そう、それは舞台のように限定的で狭い空間にさえ感じる。
さすがシェイクスピア俳優とでも言うべきなのか…場面の作り方が舞台仕様。映画を見ながら、この違和感の正体が何なのか掴めなかったのだが…この舞台っぽさが要因だろう。
万引きしたお店が、自分の家のすぐ近くで見切れたりして…え?と驚いてしまった。
ベルファストの住民は、みんな顔見知りなんしょ?みんな子どもたちの顔も知ってくれて、面倒をみてくれるというセリフがあったと思うけど。だからベルファストを離れたくないと…
そんな環境下で万引きするか?せめて顔バレしてない店まで遠征しに行かないか?
そんなの子どもでも分かると思うが…
万引きがバレて走って逃げたところで、顔バレしてるから何の意味もない。
ラストシーンのお婆ちゃんのアップ。
「振り返らないで、行きなさい」
玄関の柱に寄りかかって、そんなような台詞を言ってたが…
そして家族が乗ったバスが離れていく。
このバスが発車してるところも…最初の場所というか、今まで一家が暮らしていた家の前の道じゃないか?
道が狭いし、どう見てもバス通りには見えないんだよね…強引にバスを持ってきたような印象。別に無理してそこで撮らなくても…この辺がまた舞台っぽい所以。
恐らくベルファスト通りのオープンセットは2ブロックしか作ってないんじゃないかな?
その狭苦しさ、抜けの悪さにより、舞台セットのように見える。話も個人的体験に基づいているので、余計に小さな世界観に感じてしまった。
バディ
「キャサリンと結婚できる?」
父
「できるさ」
バディ
「カトリックだよ」
父
「ヒンズー教でも、反キリスト教でも、フェアでなんとかなら、彼女も彼女の一家も引き受ける」
曖昧な記憶だから台詞が正確ではないのだが、こんな素敵なことを言える父から私もご教授されたかった。
愛するということを体現せず、子どもに見本を見せるわけでも、言い聞かせてやることもしなかったポンコツの我が父を恨んでも仕方がないのだが…子どもは親のことを物凄くよく観察しているので、それが私の人間形成に影響を受けないはずがない。
9歳のバディもまた常に親をよく見ている。親の顔色を伺う視線など秀逸。さりげなくだが、キチンと見ている。この年頃になってくると、わざと子どもを演じることもできるようになる。子供らしく、より子供らしく…しかし、親に向けるその視線は大人よりも鋭くて繊細な洞察力を持っている。
両親の仲が悪いと、それは子供にも端的に影響がでるし、子どもは何があったのかと親の様子をコソコソ伺う。
反対に両親の仲が良いと、子供は安心してキラキラした表情を見せる。
後半にある両親のダンスシーンを見てるバディのキラキラと嬉々とした表情が物語る。
子どもを子供と決めつけて、こどもだから何も分からないと親側が勝手にコドモと決めつけないように…これは『ドリームプラン』でも思ったが、NIKEとの契約の時に、父リチャードはビーナス本人に決めさせた。これが親に求められることなのではないか?この先の将来を左右する大事な場面で、その決断を子どもに任せられる親がどれだけいるか?
Jamie Dornan演じるバディの父が、Caitriona Balfe演じるバディの母に向かって…
「君がひとりで育てた。感謝してる」
と言葉にして伝えるのは素晴らしい。これを言える男が日本にどのくらいいるだろうか?昭和世代までは言えない気がする。
こういうことがありました。その時、こんな感情でしたというのは、なんとなくわかるのだが…結局、作品として何を語りたかったのか?
感想がよくわからない。
この映画について語るのは難しい。
全体の音楽を担当しているのは、ベルファスト出身の重鎮であるVan Morrison。
ブラナー
「彼には気むずかしいというイメージがあったが、実はとても協力的で、そんな噂は嘘だったと分かった」
Van Morrisonの音楽がより映画のムードを生んでいたと思う。モノクロの映像にもマッチしていて最高でした。