Fitzcarraldo

イニシェリン島の精霊のFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
2.8
Brendan Gleeson演じるコルムが、友人であるColin Farrell演じるパードリックに告げる。

「お前と無駄話をする時間はない。残りの時間は思考と作曲に使いたい」

友人に対して酷だが…確かに同じことを私もよく思う。つい最近も絶縁宣言を相手に告げるかどうかでえらく逡巡した。

なんで今ごろになって、ウィル・スミスのアカデミー賞でのビンタ騒動ついてキミは突っかかってくるんだい?

キミは、ウィルスミスを素晴らしいと肯定する。自分も同じ状況で大切な家族や彼女のことを馬鹿にされたら殴りに行くとキミは言う…。いや、キミは普段から彼女を大切にしてるとは思えませんけど。彼女にいつも強い口調で厳しく注意してるし、喧嘩すれば彼女のカバンを2階の部屋から捨てると…彼女からそう聞いている。
そんな男がなぜ急にウィル・スミス派に?説得力がまるでないんだけど。

どうしたって暴力を肯定するわけにはいかないと私。しかも影響力が計り知れないほど大きいトップスターのしたことだから、なおさら許されざるべきではないと私。

いや、自分なら黙っていられない!ウィル・スミスを尊敬する…とキミ。

堂々巡りは終わらない。
何なのこの不毛な会話は…。

私は黙ることにして、ただのサンドバッグとなって、延々と自分の話をし続けるその男の退屈な話を喰らい続ける。

無駄。
無駄。
無駄。
この無駄な時間を読書に充てたり、映画を見たりしたいのだ。

俺の指を投げつけて、もう会いにこないでくれ…とその時ばかりは思うのだった。

キミの興味のある話が、私も興味あると思わないでほしい。それを黙って聞いてあげてるサンドバッグの私の身になってほしい。

パードリックに馬の糞の話を2時間されたとかコルムは言ってたが…

私はウィル・スミスの話を何分されたのだろう…2時間くらいの体感はある…さらに大阪の焼肉がいかに美味くて安いかの話を延々とされる。これまでに、何十回もキミから聞いている話だ。もう何度も何度も同じ話を繰り返し聞いている。退屈だ。


どこの誰でも身近に感じることを、指を切り落とすという超極端な出来事を追加しても、絵空事にはならずに真実味を持ってラストまでまとめあげた力技にはとても感心してしまう。

が…しかし。
誰からも退屈な男だと思われてるパードリックを、ずっと見させられてるこちら側もコルム同様に退屈だなと思ってしまうのは否めない。


コルム
「奴は退屈だ」

パードリックの妹シボーンを演じるKerry Condon
「そんなの昔からよ」


お世辞にも魅力的なキャラクターとは言えないので、見ている私もどんどん退屈な気持ちになって、遂にはうとうと寝てしてしまったので、パードリック同様、眉毛を八の字にした私からしたら、よくわからない映画となってしまった。



いくら兄妹といえども同じ部屋で寝てるのは…どうなのかな?現代の観点からすると気持ち悪い気がするが…100年前は問題ないのか?部屋が一つしかないのか?

そして、この兄妹はどうやって生計を立てているのか?特に兄はパブで酒を飲むことくらいで、ろくに働いてる様子がないのだが…酒代はどのように賄っているのか?
家畜と言っても3頭くらい?それだけの乳牛を売るだけで生活できるのか?

仕事もせず酒ばかり飲んでいたら、そりゃ退屈な男にもなるだろう…同じ話を繰り返すしか仕方がないし、新しいエピソードなんて、あの辺境の地ではそうそう生まれないだろう。

中盤から後半は、精霊でも見てるかのような夢心地で全く頭に入ってこない。

この映画について何かを語る資格は寝てしまった私にはない。

なので、マーティン・マクドナー監督のインタビューから気になる話を抜粋する。

マーティン・マクドナー
「パードリック(ファレル)がしつこくコルム(グリーソン)に歩み寄って、コルムが彼を脅したあと次に何が起こるか、二人の関係がどうなっていくかは、正直書いている最中は決めていなかった。どんな展開になるのがもっとも論理的かを考えたら、ああいう結果になったまで。だからヴァイオレントな終わり方にしようと決めていたわけじゃないし、暴力を描くことが目的ではないんだ」



マーティン・マクドナー
「パードリックの人生は、お喋りと飲むこと。他人から見たらそれは時間の無駄に映るかもしれないが、彼にとっては大事なことだし、彼はそれさえあればハッピーだ。パードリックの世界に不毛という言葉はない。でも問題は、他人がみんな彼のように考えているわけではないこと。そこに亀裂が生まれ、悲劇が起こる」


マーティン・マクドナー
「自分にとってはディテールがすべてと言えるぐらい大切だ。セリフについて言うなら、間のひとつひとつにも気を使う。今回もいつものように、撮影に入る2、3週間前からリハーサルを開始した。それは僕にとって、俳優と話しをする時間だ。脚本についてどう思うか、セリフはどうか。そこで僕らはお互い話し合って、このシーンは何を意味するか、どこに間を置くか、それはなぜ必要か、あるいは他の演じ方があるかどうかなどを徹底的に話し合う。だから撮影のときにはもう、少なくともアウトラインは決まっているんだ」

劇作家としてキャリアをスタートしただけあって演劇的なアプローチで作っているのがわかる。なかなか贅沢な作り方である。

新鮮さをキープしたい北野武とは真逆の作り方であろう。


マーティン・マクドナー
「誰かをイメージして書くのは、最近の私の傾向なんです。じつをいうと、『スリー・ビルボード』も、最初からフランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルをイメージしていました」

これは坂元裕二氏も同じ方法であろう。


この脚本を書くには、長い時間がかかった。何をしたいのかよくわからず書き始めたのは、7年か8年ほど前のこと。書き終えたのはいいが、自分でも気に入らなくて引き出しの中にしまっていたものを、3年ほど前に引っ張り出して読み直してみたことから、本格的にこのプロジェクトが始動した。

マーティン・マクドナー
「ひどい脚本だと思っていましたが、あらためて読むと、最初の部分はかなり良かったんです。パードリックがコルムの家を訪ねていき、絶縁されるところですよ。それで、そこは残し、その後をすべて書き変えることにしました。もとの脚本には、もっといろいろな話が盛り込まれていたのですが、シンプルにしようと思ったのです。これは、破局の話。その辛さを正直に語ってみたかった。アイルランドの内戦という時代背景にもメタファーがあります。ほんのちょっとした行き違いが、恐ろしいことにつながったりするのです」


マーティン・マクドナー
「主人公2人の話だけにならないことが大事です。シボーンやドミニクの問題も描くことによって、島民が抱える孤立の問題やその先の共生についても見えてきて、どこにでも起こり得る問題であることがわかってきます。ドミニクの身に起きることに対して、擁護しようとする人と、そうでない人がいて、物語にまた違った別の次元が加わり、本当の姿を知らない人物を断罪する人間の性を掘り下げています。この映画は、単なる喧嘩別れの話ではないのです」
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