映画とは不確かなファンタズマゴリア(走馬灯)なのだという、『メメント』(『フォロウィング』)以来一貫するノーラン的主題
劣悪なエヴァのエピゴーネンに喜んでる観客は舐められてることに気づいた方がいい
本当に何がしたいのかわからない。そんなに顔面のアップを写したいのなら、グリフィスやドライヤーからやり直すべきではないか(ちなみにリンチ版フェイド=ラウサはスティングだった)
オープニングとエンディングがともに圧巻(ワイルダー→アルドリッチ→リンチという系譜)
こういうのを見ると、「芸術とは湧き上がる衝動だ」というようなインテリの自己弁護がいかに卑しい根性なのかがわかる
映画の裂け目をあえて見せびらかしてしまうシニカルさが、オマージュだなんだとうるさい映画の境界をすべてねじ伏せてしまう(『ミッドナイトクロス』よりもはるかにレベルが高い)
パロディのパロディのパロディのパロ……
途中から二人がジェフ・ブリッジスとジョン・グッドマンに見えてきた
(たとえばPTAにあけすけなパロディを撮るだけの度胸(愚かさ)があったら、『インヒアレント・ヴ>>続きを読む
女が勝つ
追記)おそらくは伝統的なファム・ファタールの転倒に起因する、コーエン兄弟によく見られる女性の勝利について考えてみたい
セカイ系はオタクの孤独な想像力の中でしか成立しえないことを示した快作
ソーシャル・ネットワークの成熟。フィンチャーの(皮肉な)映画愛が爆発してて泣けてきた
エラン・ヴィタールだった‼️
最初のバイクのシーンが絶頂で後半はあんま面白くない
(最後に良い感じにまとめようとしてるあたりが特に)五里霧中で真顔で滑り倒してる凄みがある。たぶん映画館で見たら爆笑してたと思う
最後ウディ・ハレルソンみたいになってて草
ウェルズの「審判」とキュアロンの「トゥモロー・ワールド」をみよう
7年ぶりに。いうまでもなく傑作
死への先駆によって現存在が自由になるというハイデガーの議論が初めて腑に落ちた。自由とは重力なのである
ちょうど去年の年末に見た「ホワイト・ノイズ」を思い出したので。世界を自分の目で見ること、すごくよかった
天上の批判から地上の批判→喜劇
地上の批判から天上の批判→悲劇
Cf.『サンセット大通り』『バートン・フィンク』
悲劇をことごとく無化されたボニー&クライドの白昼夢。本当の悲劇のなかでこのコミカルさを演出できれば歴史に残る傑作になっていたが、やはりそれは難しい
Cf.『拳銃魔』
仮借なき真昼のフィルム・ノワール。コーエン兄弟は『ノーカントリー』でみずからの『ブラッド・シンプル』を超えた。(フランシス・マクドーマンドとケリー・マクドナルドの対比に注目したい)
ふたつの主観ショット、そして回転。
精神分析と探偵についてはジジェクの『斜めから見る』を読むべし。
映画とはなによりもまず光学的イリュージョンでなければならない。その意味で、リドリー・スコットが人類に『エイリアン』と『ブレードランナー』を残した功績はあまりにも大きい。