晴れない空の降らない雨

赤毛のアンの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

赤毛のアン(1979年製作のアニメ)
4.6
 世界名作劇場第5作で最後の高畑勲監督作品。OPアニメーションは名劇で一番好きかもしれない(確か宮崎駿が絵コンテ切っていた)。

■宮崎駿の途中脱退
 15話を最後にレイアウトマンの宮崎駿が途中降板してテレコムに移籍し、『カリオストロの城』の制作を始める。高畑の指揮下で宮崎が働いたのも、これが最後となった。
 宮崎駿脱退に関しては、画面を見る限りでは、宮崎本人以上に彼に付いていったアニメーター(篠原や友永ら)の脱落の影響が大きかったように思う。例えば、アンの空想が激減している。アンの空想は、花びらやら妖精やらがたくさん飛び回るので作画カロリーが高いのである。また、19話のように止め絵を多用する、20話に総集編を入れる、などは制作体制のガタつきのせいではないかと思う。
 
■作品について
 本作は原作からしてドラマチックな展開に乏しいが、80年代はこういう作品も増えていったように思う。高畑は当初会話劇である本作をどうアニメ化するのか困ったが、「これはユーモア小説だ」と理解してその会話劇の楽しさをそのまま生かすことにしたらしい。そして、その狙いは見事に実現できている。つまり、「アンはいたって真剣だが、大人から観ると滑稽」という構図で、視聴者側も大人と子どもがそれぞれの視点で楽しめるようにできている。
 それが端的なのはマリラの返しやボヤキの面白さだが、高畑は脚本だけでなく演出においても大人の視点を紛れ込ませて、アンたち子どもの世界を相対化している。アンが話に夢中になるときマリラの仏頂面を挿入する(あるいは画面の手前にマリラを配置する)のは典型的な手法だが、加えて実況中継風の男性のナレーションもそうした意図に基づくものだろう(名劇のナレーションは基本的に女性か主人公本人)。
 
■主人公アンについて
 宮崎駿は本作から離れるとき「アンは嫌いだ。あとはよろしく」と言い残したらしい。『母をたずねて三千里』から高畑は主人公を美化して観客の共感を呼ぶことに批判的になっていたし、また原作の尊重という元来の高畑のスタイルから、アンの性格はあのようになったに違いない。ただ、何話か見返して気づいたのだが、アンが単に想像力豊かな空想家ではなく実際は賢い子どもであることは最初から結構示されている。
 アンのおでこがやたら広い顔は最初取っつきにくいが、「将来美人になるが今はそうでない」という原作の設定を何とか表現しようとしたものらしい。キャラデザ担当の近藤喜文(のち『耳すま』監督)は何度も高畑に没にされたとか。
 そして狙い通り、作品の途中で青年期に成長してキャラデザも変更される。そういうヒロインがいるのは、他に『私のあしながおじさん』と『レ・ミゼラブル』だけとか。でもアンの場合は急に年月が流れて成長するのではなく、少しずつ絵が変わっていくのだから手が込んでいる。
 声優の山田栄子は泣き声の演技がうまい。

■親友のダイアナについて
 アンには相棒のペットがいない。これは親友のダイアナがいることが理由として大きいだろう。アンとダイアナの百合百合しい友情は大半において物語の原動力だが、それだけに終盤で2人の道が分かれていく寂しさを生み出している。平たくいえば、一心同体のアンとダイアナが、独立した自我を確立するという成長プロセスになっているわけだ。