世界名作劇場第2作(1作目『フランダースの犬』はどうしても観る気にならず。『ハイジ』は厳密に言うと世界名作劇場ではない)。高畑勲監督作品で、宮崎駿と小田部洋一も変わらず主要スタッフとして参加している。また、富野由悠季も『ハイジ』『犬』に引きつづき絵コンテマンで参加し、本作では2話に1回のペースで描いている。
■ペッピーノ一座と『コナン』
『未来少年コナン』のレビューで書き忘れていたけど、ペッピーノ一座の面々の声優のこと。団長はダイス、コンチエッタはコナン、フィオリーナはラナと、『コナン』の重要キャラの声優を務めている。特に団長とダイスはキャラも近いし、影のあるヒロインのフィオリーナとラナも相通じるものがある。
本作の制作中は不満たらたらだったという宮崎だが、ペッピーノ一座のことは気に入っていたのだろう。加えて、言うまでもなくジムシーはキャラごと『トム・ソーヤーの冒険』のハックの借用だし、宮崎は世界名作劇場のことを意識していたのかもしれない(もっとも宮崎はコナンに思い入れしすぎて、ジムシーをあまりうまく動かせていなかったと思うけど)。
監督の高畑もペッピーノ団長に自己投影していたかもしれない。やたら演説が達者だし(笑)。冗談はさておき、ペッピーノはやたらと芸術家ぶるが、やっていることは日銭稼ぎのための三文芝居である。そんな彼に、芸術・文芸志向の強かった高畑自身の自虐が込められている気がする。
■本作について
閑話休題、この『母をたずねて三千里』の出来は全く『ハイジ』に劣らない。それどころか、『ハイジ』のリアリズムをさらに突き詰めつつ、高畑本人の作家性も開花してきて、実に完成度の高い作品となっている。
特に何てことない台詞も1つ1つよく考えられている。高畑監督の名劇はやはり高畑作品という感じで、他の名劇とはまるで違う。言い回しや掛け合いが巧みだとか決め台詞が感動的だというわけでなく、台詞そして芝居で人物の思考・感情・性格を表現するのがうまい。道中派手に盛り上がることは滅多にないが、印象に残るエピソードやキャラクターも多い。
がしかし、とにかく辛気くさいエピソードも多く、何より華がないから、正直なところ見返そうという気はあまり起こらない。まぁ名劇じたい、見返すには長すぎる。
全編ひたすら憂鬱なわけでなく、ブラジルに着くまでは陽気な船員たちのおかげで楽しい話が続くし、途中まで同行するペッピーノ一座は物語の癒やし要素になっている。それでも作中には貧しい人ばかりが登場する。マルコは彼らとの出会いと別れを繰り返しながら母捜しの旅を行くも、空振りし続け、次第に肉体的にも精神的にも追い込まれていく。
また、背景も荒れたものが多い。例えば町中では建物のヒビ割れや剥がれ痕などが描き込まれている。道中の景色も単調で平坦で目を喜ばせるものとは言いがたい。さらに興味深いことには、陽光によって全体的に白く飛ばしているようだ。おそらく現地ロケの成果を反映したのだろうが、これも本作の地味さに拍車をかけている。
■高畑の選択:主人公マルコについて
こうした作品の雰囲気は、高畑自身の選択でもある(本作の多くは高畑の選択だろう)。当時の高畑は明らかにイタリア・ネオレアリズモの影響を受けており、それはジェノバを舞台とした14話までによく現れているが、その後にしても高畑はひたすら主人公マルコを描き続けている。カメラが一時的にマルコを離れることはあるにせよ、イタリアに残した父や兄、アルゼンチンにいるであろう母、あるいはペッピーノ一座を主人公にした話を挿し挟んで気分転換を図るといったことはしていない。
そして、カメラが終始釘付けとなる我らがマルコ少年。彼があまり魅力的でないという問題がある。マルコは、のちの高畑作品の主人公を思わせる。つまり、状況に対して無力でありながら、決して観客の同情を誘おうとはしない主人公である。清太からかぐやまで、高畑はこのような人物を主人公に据えていく。
もうひとつ高畑印と言えるのは、夢・空想のシーンの多さだろう。本作の場合、マルコが夢想家ではないので夢のシーンが多い。その中には、ベルイマンの『野いちご』を意識したとしか思えないホラーなものがあり、先のネオラレリズモの影響といい、この頃の高畑はヨーロッパ映画にだいぶ傾倒していたのではないかと思われる。