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新世紀エヴァンゲリオンのmasatのネタバレレビュー・内容・結末

新世紀エヴァンゲリオン(1995年製作のアニメ)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

恐ろしい、そして、微笑ましい、
アニメだ。
いま第11話時点。

中学生二人が、のちに3人になり、
司令部に、大人たちに、人類に、
蹂躙されていく。

内向性のある中学生、
なのに何故か、
爽やかで溌剌として、微笑ましい瞬間がある。
そんな子供たちの周りの大人達は、
どんな事があっても焦らず、取り乱さない。
まるで“一度死んだ”人たちであるかのように、どこか諦めていて、すべてを受け入れる準備がされているかのようだ。

第一話から、ゾッとする。
それはもうすでに始まっていた。
引篭で父親へ微かな希望を抱く少年の目の前に、片目に眼帯をはめ、全身に巻かれている包帯から滲む血液が、やけに痛ましい少女が過ぎる。暗澹たる悲惨さが待ち受ける“この先”への覚悟を、観る者に強いる。

酷くオゾましい展開の連続だが、
青春の始まりが見え隠れする。
そこが堪らなく微笑ましい。
そう、夏はいま始まった、青春は終わっていない。これからすべてが始まる子供たちの話が、
その瞬間瞬間、とてつもなくカッコイイ、
美意識とスタイルを発揮する。

観る者は、
すでに始まっている状況に放り込まれ、
すでに置いてきぼりを喰らう、
その上、回を重ねるごとに、何も解消されず、謎は深まるばかり・・・
観る者を寄せ付けない癖の強さ。
なのに、夢中にさせ、震える。
適切ではないだろうが、確か、
『ツイン・ピークス』も、遥か30年前にそんな姿を晒し、世界を夢中にさせた。


その後、
最終話までイッキに観ました。

リアルタイムで観たら、当然違った印象になったと思うが、いま初めて見ることにより、より一層、客観視できて良かった気もしています。

これが噂の“中学生血みどろスプラッターアニメ”か!?と、思った。
予想を超えていて、驚いた。
まさに大人によって、マシーンに入れられて、蹂躙され、まるでレイプされるような中学生たちが、悍しい。
だからこそ、最終話で出てくる“訪れなかった現在”が、より痛ましく、涙を誘った。血も流さず、レイプもされない、夏の日差しの中、生き活きと、そう、溌剌とした中学生らしい歩みを歩めたなら良かったと、祈りに近い幻影が現れ、鮮烈だった。

それもこれも、未熟な“フランケンシュタイン博士”が、もたらした悲劇だった。
もうメアリー・シェリーまんまだ。
未熟な碇(のちの司令)は、自分の研究課題を実施、実証する為に、あらゆる手段を使って、政治の中枢に近づき、同時に世界的危機の元、ドサクサに紛れて侵入してしまう。
その過程では、様々な“女性”を犠牲にし、自らの(まるで)欲望を人類的大義として推し進め、
女も子供も、自らの肉親さえも、道具として扱い、非道の道を、畜生道を歩む。
この無残な犠牲や残骸たちは、結局のところ、一時でも人類を救ってしまったのだ。
この大人の勝手な信念と、血を流した青春の咆哮が、明確に絡みあう。
その上、見る者をも躍動させるスペクタクル展開を目の前で繰り広げる。その有り様に、熱狂しない人間がいるだろうか?

遥か昔、子供の頃に見たトラウマテレビ、ドラマを強烈に思い出した。
人間に説教をする畳の上の宇宙人や、行き場のない科学者ノーマンと愛犬、「京都を売って!」と署名活動をする女・・・
エヴァの制作者は、その美意識を発揮しながら、経済成長期に見た奇ッ怪なメッセージを受け継ぎ、20世紀最後の衝撃を企み、見事に子供たちのトラウマを培うことに成功し、さらには、日本のアニメ史、および映像史を変えてしまうことに成功した。
その悪意とも取れる創造性、そしてそれが実に裾野が広い挑戦だったという事が、碇司令(その目的)そのものの様で、恐ろしくリンクする。
やはり、(映像の)創造主(クリエイター)は、フランケンシュタイン博士であるべき、である。

「それは生きている!」
「なぜ創ったーッ!?」