連ドラ×デスゲームの親和性は悪い!!!
デスゲームとは、命を学ぶものであると共に、高カロリーな刺激を手軽に摂取できるものだ。
その2つを手に入れる観点からすると、連ドラとデスゲームの親和性はあまり良くない。
なぜなら、時間的なところから、どうしても人物の掘り下げが多くなるからだ。
どうせリタイアをしていくであろう人物たちの過去になど、あまり興味が湧かないことは現実にある。
だからといって、長い時間延々とゲームばかりを続けられてはどうだろうか?
刺激に慣れてしまい、なんだか退屈だった。という感想で終わってしまう可能性がある。
デスゲーム作品が横行するいま、そんな感情を抱いてしまうのは当たり前のことだ。
しかしながら、
この親和性への考えを"全て覆してくれた"のが本作である。
まず人物掘り下げの部分。
これは、主要人物たちの過去をダラダラと流すわけではないのがこの作品の特徴だ。人物たちの「今」の感情をフォーカスすることに時間を当てている。
「今」を流し続けることで、我々は忙しく視点の切り替えをする必要がないうえ、"人物への思い入れ"も手に入る効果がある。
人物への思い入れがあると、その人物がリタイアした時に動く感情は、登場間もない人物との比にならないことは、デスゲームだけに言えるものではないだろう。
そして、複数の登場人物となると、映画の中ではとても描ききれない。一話進むごとに溜まっていく人物へのこの思いは、まさに連ドラならではといえる。
ほかにも親和性を強調できる事項がある。
「警察の介入」
「ゲームの裏をかく」
これらは、基本のデスゲームから派生した、我々を飽きさせない画期的な手法として存在している。
とんでもないことに、本作ではこの2つもふんだんに盛り込まれている。
それが物語の中に絡み合っていき、回を追うごとに要素として大きくなっていくため、全てのシーンで目が離せない。これもまさに連ドラだからこそできる技である。
つまり、デスゲーム作品と連ドラの親和性は、物語の作り方により如何様もできるのでは?と考えざるを得ない。
「人物の掘り下げ」「警察の介入」「ゲームの裏を書く」
気づけば大変贅沢な内容が詰まった作品だとなっているが、最も大事なものを忘れてはいけない。
それは、「デスゲームの内容」だ。
漫画アプリ、動画配信サービスなどで手軽にデスゲーム作品に触れることが可能ないま、ゲームの内容自体のハードルが上がってきている。
それでも、この作品では「それがどうした」と言わんばかりの内容である。
そもそも、デスゲームの基本は、日常の延長戦にある恐怖だ。
見たことないような作品オリジナルのギミックに挑戦する、複雑なルールを紐解き隠された真実を探る。などのゲーム内容ももちろん面白い。
それでも、「日常」だ。「日常」を感じられるものが一番面白いのだ。
この作品では、「子供の頃にした遊び」をテーマにゲームが構築されると早々に語られている。
まさに、それは日常を感じられる素晴らしいテーマであるのは間違いない。デスゲームの基本に立ち返ったといってもいいだろう。
日常に触れたものであれば、観るものは一生懸命ルールにかじりつく必要はない。
ただただ、「自分が参加していたら」という想像を容易くし、登場人物たちの一挙一動にハラハラすることができるからだ。
連ドラ×デスゲーム
本作を持って、その親和性は間違いないと訂正せざるを得ない。
「日常」といえば、「コスプレ」においても大事なのが「日常」だ。
日常を感じられるコスプレは、興奮度が段違いになる。
代表的なのは、「制服」である。
コスプレ界の覇王とも呼ぶべきそれは、私達の日常の中にあふれているからこそ、絶対的地位を築いているのだ。
かわいい。デザインがいい。若い子が着ている。それらも人気の理由なのは間違いないが、一番の理由は「日常」だ。日常なのだ。
制服は日常的に目にすることが多い。この部分が最も重要で、世の中の心理ともいえる。
しかし、それは、ただの日常ではない。
日常だからといって、起き抜けのコーヒーブレイクのように気軽に扱えるだろうか?そんなことはできるわけがない。
そう、制服は、「日常であって、非日常」なのだ。
コスプレは、完全な非日常になりがちだ。そしてそれは、全くもって悪いことではない。
本来、それがコスプレだからだ。非日常がコスプレだからだ。
それでも、忘れてはいけないのが日常。日常なのだ。とにかく、日常が大事だ。
20代前半の女性が、とある業務の中で打ち出したデータにもその結果が現れている。
その写メ日記には、
「制服の中でも、"セーラー服"よりも"ブレザー"を選ぶ顧客の割合が圧倒的」
という内容が書かれていた。
なぜか?その答えはすでに出ている。
日常だ。日常だからだ。
デザインだけでみるとどうだろうか?どちらも大変魅力的で、よほどの好みがない限りどちらがいいとは言い難い。
それでも、このような結果が出る理由は、ブレザーの方が日常よく見かけるからだ。
セーラー服を指定制服にしている学校が多い風潮であれば、このデータは真逆になっていたに違いない。
そう、刺激を得るためには、非日常を体感することが全てではないのだ。
日常とリンクして、自分の中に落とし込んで、想像して。
やはり、コスプレに必要なのは、日常なのだ。