なっこ

雪国 -SNOW COUNTRY-のなっこのネタバレレビュー・内容・結末

雪国 -SNOW COUNTRY-(2022年製作のドラマ)
3.1

このレビューはネタバレを含みます

確かに、駒子は日記を書いていた。それが物書きの島村の興味を引いた。ふたりが接近する大事な点。でも、そこに何が書かれているのか、私たちは知る必要があっただろうか。

男の視点で進行していた物語を女の視点で語り直す。日記は答え合わせのように島村の疑問に答えてくれる。でもそれは、解釈を狭めてしまう行為。もちろん、私たちはこう読みました、という一つの答えであるわけだから、それは制作側の自由なのだけれど。

高橋一生は20歳の頃に一度読んだというインタビュー記事を読んで、珍しく先に小説『雪国』を読んだ。何より170ページほどの中編というところに惹かれて。ノーベル文学賞作家川端康成は高校の教科書で『伊豆の踊り子』を読んだだけだった。短いはずのそのページ数に濃密な男女の物語が潜んでいた。

冒頭のシーンの美しさに圧倒された。何よりこの小説から響いてくる音、声の美しさに。名作は何年経っても人を惹き込む魔力がある。何より映像的で、静止画の積み重ねというよりも、動画で滑らかに物語が進行していくのがよく分かる、最初から映像化向きの物語だったのだと分かった。
語り手はほぼ島村、男の視点。心情に入り込むのも島村から見た女の様子だけ。そうなると、時代が変われば女の心情は分からなくなるのが普通。昭和初期の女と現代の読み手では環境が違い過ぎる、はずなのだけれど、不思議なほど身近に駒子の感情を知ることが出来た。男の中にある女の姿を素直に立ち上がらせることが出来る、これが“透明な鏡”の存在としての島村、というよりも作家の筆の力なのだろう。彼が写し取る自然の姿と同様に描かれた女たちも美しかった。

旅をする身体に読むには良い文体だと思う。さらさらと流されていって全く罪の無いようなこの男の物語を腰を据えて読んではいけない気がする。立ち止まって考え始めると憎んでしまうと思う、駒子もきっとそうだったろう。人生という旅の途中に行きあって出会う人だからこそ許せるところがある。常に留まってそこに居る男だったなら互いに擦り減らし合うようにしか愛せない相手だったかもしれない。そういう納得が必要な恋も愛もあるものだ。

トンネルを抜けて雪国へ。列車はふたりの男とひとりの女を乗せて東京からやってくる。甲斐甲斐しく世話をする女に美しさを見る島村の心情から、この看病される男が彼の分身であるのだろうと思った。そして、この美しい声の持ち主の葉子が駒子の分身。西洋でいうならば、金髪と赤毛で描き分けられるような、聖女と運命の女、のふたり。画の中では、赤と青の上着で描き分けられていた。それがとても美しかった。汚れず一心に行男を想い続けられる葉子と、何かを犠牲にしながらでないと行男と生きられない駒子。ドラマで駒子が葉子に見せる激しさは、そんなヒロインの想いが垣間見えた。原作では、そこまでの描き分けはなかったように思う。

原作が発表されたのは80年も前。語り得なかった女たちに何を語らせるのか。何を聞けたら、私たちは駒子の思いに寄り添えるのか。そう考えて、駒子の日記を創作したのだろうか。

テキストの解釈は時代によって移り変わってゆく。これが、今の答えだということに過ぎない。でも、私が聞いた駒子の声は、そんな平凡な女の嘆き節ではなかったように思う。作家が敢えて書かなかった駒子の生活の実感を言葉にしてしまうのは何か、さみしい気がした。あんた、笑ってたのね、駒子にそう言われかねない。

笑ってなんかないよ、徒労でもないよ、今となっても本当に人を愛せるのは女だけ、あんたの言うとおりだよ。

私ならそう言って落ちてきた葉子も抱き止めた駒子も一緒に抱きしめてあげたい。気を失った島村なんてほっぽって。

私ならどうこれを構成し直しただろうか。東京での暮らしを少し入れたのは良かった。私も多分そうする。そして、やはりラストはあの火事のシーン、赤い炎と天の川が冴える夜空、それに飲み込まれた島村が、東京の書斎で柱時計の音で午睡から目覚めるような、そんなベタな展開で幕切としたい。
なっこ

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