ゴトウ

仮面ライダー鎧武/ガイムのゴトウのレビュー・感想・評価

仮面ライダー鎧武/ガイム(2013年製作のドラマ)
4.4
『電王』以降、キャラやアイテムにおける有名声優の起用や、決めセリフ、キャラクター商品を連発する一方、『クウガ』『アギト』等初期作品から続く重厚ドラマ路線もキープし続けたことで、「大人の鑑賞にも耐えうる子ども向け作品」というよりは「大人オタクが喜ぶ子ども向け作品」になっていた平成ライダーシリーズ。その中でも『鎧武』は、ライダーのデザインや変身ベルトの珍妙な音声からはコミカル、というよりやや間抜けな印象を受ける一方で、その内容は大人オタクが好むアニメに近い(同時に子どもは置いてけぼりにされるであろう)ものになっていた。児童誌の絵柄で青年誌の作品を描くような試みの結果、マスターピースである『クウガ』、以後のシリーズに良くも悪くも大きな影響を残す『電王』に並ぶ名作となっていたと感じた。同時に、全話熱心に観ているファン以外を振り落としたこと、(既にシリーズにおいて常態化していたとはいえ)デザインや珍妙なベルト音声などの要素でやはりライト層の大人には舐められたことも間違いないはず。自分自身も熱心に観ていたのは『オーズ』までで、『鎧武』も放送開始直後しか観ていなかったような気がする。配信で気軽に過去作品を一気見できるようになった結果、リアルタイムで乗り切れなかった作品を楽しめるのはありがたい。

武将モチーフのライダー、戦国時代をモチーフに「各々の欲望/正義/信条」がぶつかり合う物語の中で「人を率いるリーダーとは何なのか?」という明確な答えが存在しない、大きなテーマが提示される。より大きな目的のために相対的には小さな犠牲を厭わないという考えを持ちながら、人間的な情が捨て切れず、さらには大局に気を取られるあまりに近しい人間との関係もうまく構築できずに裏切られてしまう呉島貴虎と、兄以上に頭が切れ、合理的な判断を最優先しているという自負故に、舞だけを特別扱いしている歪さを自覚できず、結果的に周囲から孤立していく光実という実は似たもの同士の兄弟の主張もある面では正しい。弱者を救うというヒーローに大前提の目的に至る道筋として、自分自身が圧倒的強者として勝ち続けねばならないというザ・ベジータ(あるいはサスケ)ポジションの戒斗の主張も完全に排除できるものではない。「正義の反対はまた別の正義」という言い回しは好きではないが、「正義のヒーロー」である仮面ライダーにこの問いを持ち込んだ結果、最もオーソドックスで正論を言っていることには間違いない(し、中では一番リーダーとして人望があるように描写される)ザ・主人公の葛葉紘汰が、時に登場人物たちから「異常者」「危険な男」と否定されるあたりが挑戦的だと思った。

もう一つ印象的だったのは、大人/子どもという対比。姉(泉里香顔変わりすぎじゃないか?)と紘汰、貴虎と光実のように、「こうあってほしい」という理想とともに子どもを見守る大人と、戦士として生きることを余儀なくされる中でアイデンティティ(「戦う覚悟」のようなワードで何度も言及される)の確立にもがく子どもの物語とも読むことができる。途中からロールモデルとするべき大人、凰蓮のもとで人間的に成長していく城之内(この二人も含めてサブキャラクターも本当に魅力的)、大人を信じず、利用しようとしてついていく大人は間違える光実の描写も含め、手に余るような強大な力である変身能力を得た子どもの人生が周囲の大人によって左右されていくあたりも見応えのあるストーリーだった。「悪い大人」であるところの戦極凌馬(「悪い子どもは悪い大人の格好の餌食」のシーン含め、作品通した超怪演、逮捕されてるのが残念)やシドなど、貴虎が言うところの「世の中にいくらでも存在する理由のない悪意」の描写も見応えがあった。大人側からの名セリフも結構多かったけど、凰連さんは後半ほぼ毎回名言というか、分別ある大人の発言してたな。

「戦わなければ生き残れない」「欲望と欲望のぶつかり合いを止めなくてはならない」という『龍騎』『剣』的なところを乗り越え、「悪い奴や馬鹿な奴はいない方が良い」「新世界の神となる」の夜神月的視野狭窄に陥る光実が徹底的に失敗し、なぜある種の異常者である葛葉が主人公である必要があるのか?なぜ「黄金の果実」は葛葉に渡るのか?を平成ライダーシリーズとして描き切ったのが本当に素晴らしい。「果物+鎧武者」というコンセプトには序盤こそ何でやねん、と思わされるが、ここまできれいにまとめられると言うこと無し。玩具販促番組の側面もあるから、登場させなくてはならないアイテム、形態を物語に絡める苦労も想像に難くないが、それもほとんど違和感なく織り込まれていた。強化形態を持たないアーマードライダーの戦いは一辺倒になりがちだったが、そうしたライダーのアクションは序盤から登場していたスイカアームズが上手いことアクセントになっていた。かなりの多人数ライダー作品ながら、序盤からいる脇ライダーも、早期に退場した黒影も(量産型としてだけど)継続的に画面に登場していたのも好印象。変身ベルトが人類存亡の鍵を握る重要なアイテムであることも、玩具をより魅力的に見せていたのではないだろうか。後は上位互換とされる新たなベルトが登場する中で、最初の戦極ドライバーを使い続ける鎧武がなぜ凌馬にとって脅威となり得るのかというあたり、実際のところ「DX 戦極ドライバー」を売り続けなくてはならないというのが理由なのだろうが、上手いこと理屈をつけるなあと感心しきり。強化フォームが登場した後も古い装備にきちんとスポットが当たるし。ロックシードごとに独特の武器が割り当てられていたのもあって戦闘シーンが結構面白かった。バイクや飛行ユニット、スイカアームズで戦闘シーンが立体的になる。ゲネシスドライバーで変身すると全員共通武器になってしまうので、その辺だけアクションがちょっと単調だったかな。

「敵の力を使って戦う」という仮面ライダーの大原則も、「怪物の食料である果実を安全なものにベルトで変換して戦う」という形で踏襲しているし、改造人間(通常の人間の肉体ではない人間)要素は改造のように一瞬ではなく、戦いの中で徐々に(敵対する怪物と同じものに)肉体が変質していくという描写になっている。この辺は『クウガ』でもあるし「徐々に味覚がなくなる(というかヘルヘイムの果実以外を美味しいと感じなくなる)」のは『オーズ』でもあった。人間をやめて姿を消し、主人公のいなくなった世界を他の人物たちがどのように受容するか…という最終回は『剣』的。『W』同様に架空の街の中での物語だが、市民たちは無邪気に仮面ライダーに声援を送ったりはしない。ヒーローであっても(時に根拠のない噂がもとで)非難の対象となってしまうあたりは、よりシリアスにローカルなヒーロー像(スパイダーマンとかは嫌われたりするよね)を捉えているように思った。装着型の変身であること、仮面で顔が見えないことを生かして変身者を誤認させるやり口は『555』か。「戦わなければ生き残れない」要素の他にも平成ライダーシリーズへのオマージュが散りばめられていたのは、虚淵玄が平成ライダーファンというのも理由の一つなのだろう。複数のライダー作品に出演している弓削智久に「善と悪は容易に反転する」「俺もいろいろあったから」と言わせたのは絶対わざとだと思う。

しばしば「ライダーは無職だらけ」とネタにされるように、「悪い奴を倒してみんなを守る」ことがゴールである以上、悪い奴を倒して1年間の物語を終えた後の主人公はどこかに去るか、プラプラしてるかのどっちかが多い。ヘルヘイムとともに新たな「ステージ」に向かい地球を離れることが、紘汰にとっての戦いが永遠に終わらないものであり、だからこそ彼が「ヒーロー」であるという着地は、ヒーローもののお約束をあえて問い直すという意味でも初期平成ライダーと同じかそれ以上に挑戦的だった。あとうがった見方をすると、少なくともMOVIE大戦で一回、ディケイドが絡めば何回でも戦いに戻ってこなければならないというライダーの宿命も見据えた上での結末なのかなとも思う。平和な暮らしに戻った人を戦いに呼び戻すの、かわいそうだし。もう訳のわからん存在になった紘汰さん呼ぶ方がまだ胸が痛まないよな。「仮面の下では泣いている」というもう一つの約束事を、仮面をしていなくても「泣いていいんだ」と主人公に泣きながら言わせたところも感動的。お約束を洗練させて解釈し直すみたいなのに弱いので。

おそらく仮面ライダーで初めて、アメリカはじめ先進諸国から日本に戦略ミサイルが発射された作品であるところも見逃せない。何でそれまで警察や自衛隊が助けに来ないんだ問題も、周到なユグドラシルの準備ということなら納得です。正直、途中ダレたところもあったけど、こんだけいろんなテーマを扱えるのも1年間放送があるからだからね…。

あと、変なコラボ回は訳わかんないし飛ばして全然よかった。湘南乃風の主題歌も毎回飛ばしてたから最終回で初めてちゃんと聴いた。
ゴトウ

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