堊

ブラック・ミラー バンダースナッチの堊のレビュー・感想・評価

3.4
どの選択肢を選んでも、全く同じようにしかならない。それはむしろ作品世界の狭さと不自由さを感じさせる。そう、この現実世界が自由すぎるから…っていうのは嘘で、私が不自由さを感じるときに本作と比較し、自由さの象徴として思い描いているのはGTAやなんかのオープンワールド系で、それはもはやプレイヤーが選択をするということすら意識させられていないからだろう。ゲーム制作メタネタや偽の記憶としてドラッグにまつわる会話、いずれにしてもこの現実世界の自由度にもゲームにも勝てない本作が負け戦をどのようにやり過ごすか、という開き直りの詐術の一つに感じられた。選択肢を選択する間、物語は展開させられないため絶望的にテンポが悪くなる、だがそうしたテンポの悪さ、音楽映画であること(わざわざどちらのレコードを聞くのか選択させる)、そもそも選択肢を与えられたという一点で視聴者参加型映画を喧伝するということも含めて非常に出来の悪い80年台映画らしさに溢れていた。(もちろんタンジェリンドリームとcureをみんなが聞いていたなんていうのは70年代の若者がみんな風街ろまんを聞いていたり90年台の若者はみんなフリッパーズ・ギターを聞いていたとするのと同じMTV的な歴史修正主義である)。色彩溢れた部屋から部屋への展開は極めてA24映画に意識的だったし、権力の美学とAKIRAのポスターが向かい合って飾ってあるのはもはやギャグの域だろう。だからこそ本作は「どっちのシリアルを食べるか」なんて最初の選択にこんな選択に意味があるのか?と思った視聴者に答えるように「選択すること」、それ自体が無効にさせられたとき唐突に終わる。具体的にはバス内で聞く音楽がノイズになっているラストで(もちろん私が見た一例なのでもっと「奥」まで行ける人もいるだろう)、わたしたちはどちらの音楽を聞くかなんて選択をしたという記憶を保持したまま、決して選択をこれまでと同じようにできることもなくノイズによって違和感を感じたまま唐突に終わる。
実際に主人公に言及されている選択肢の少なさよりもこうしてプレイヤー側が言及し没入できるほどの記号の少なさ(やりこみ要素)のなさがどうしても気になった。記号を浴びるために映像を見ている⇔ゲームはどれだけ記号が少なくてもいい。ゴダールはやり込みゲーだし、やり込みゲーを装うことが傑作とされているような映画の世界というものがなんとなく本作によって浮かび上がってくる気がする。そしてもう一つ、どこまでもこの映像世界は続いているんじゃ…、そう思わせるためにはなにも何百時間の映像が必要なのではなく、シークエンスバーを消滅させるだけでいい。選択を待つ間、私達は今が序盤なんのか、終盤なのか全くわからなくなるだけでここまで不安になるなんて。いずれにせよネットフリックスという、運営すら消し忘れているような作品が埋もれている(かもしれない)検索バーすらなぜか機能しないどこか巨大でうさん臭い(いずれも陰謀論には必須である)インターネット・アーカイブだからこそ出来た作品であろう。