タケオ

ウォッチメンのタケオのレビュー・感想・評価

ウォッチメン(2019年製作のドラマ)
3.9
アラン•ムーアが、自らのコミックを原作とした映像化作品でのクレジット表記を頑なに拒否しているのは有名な話だ。「私の作品はどれもコミックでしかできない表現を突きつめたものであり、映像や小説に置き換えられるものではない」というのがムーアの主張であり、『フロム•ヘル』(01年)にも『Vフォー・ヴェンデッタ』(05年)にも、そしてもちろん映画版『ウォッチメン』(09年)にもムーアの名前はクレジットされていない。映画版『ウォッチメン』は、監督が『300<スリーハンドレッド>』(06年)で「コミック的な表現をコミック的な表現のまま映画に持ち込む」という全く新しい手法を編み出したザック•スタイダーということもあり、ムーアのコミックを原作とした映画の中でもよく出来た方だった。しかし、ザック•スナイダーの偏執狂的ともいえる演出をもってしても、結局のところ映画版『ウォッチメン』は、原作コミックを絵解きしただけのダイジェスト作品にしかならなかった。努力は認めるが、やはりムーアの作品を映像化するなんて無謀な試みだよね•••というのが、映画版『ウォッチメン』の個人的な評価である。だからこそ、『ウォッチメン』がHBOで連続ドラマ化されるときいたは正気を疑った。原作の後日譚を全く新しい脚本で制作するというのだから尚更だ。原作版『ウォッチメン』(86〜87年)の前日譚を描いたコミック『ビフォア•ウォッチメン』(12〜13年)の評価がイマイチだったことからも、『ウォッチメン』という聖典に手を加えることが如何に無謀でリスキーな行為であるかは、ドラマ版『ウォッチメン』(19年)の製作総指揮を務めたデイモン・リンデロフもよくわかっていたはずだ。その証拠にリンデロフは、本シリーズの企画を2度も断っている。しかし、3度目の依頼でとうとうリンデロフは本シリーズの企画を引き受けた。この時のリンデロフの想いは、きっと映画版の企画を引き受けたザック•スナイダーと同じものだろう。「他の誰かに任せるぐらいなら俺が責任を持って形にしてやる」という、狂気にも近い捨身の決意である。リンデロフはドラマ版『ウォッチメン』が原作版『ウォッチメン』に依存しただけの2次創作になるのを避けるために、1921年に実際にアメリカで起こった「タルサ暴動」にまで物語を遡った。KKKによって黒人居住区であるグリーンウッド地区が襲撃され、300人以上の犠牲者が出たというおぞましい暴動の様子を、本シリーズは第1話の冒頭から早々に映し出していく。それも、かなりリアルで生々しく。そうすることで本作は、原作版『ウォッチメン』に斬新かつ大胆な解釈を持ち込むだけでなく、「人種差別」や「暴動」という普遍的かつタイムリーなテーマを濃厚に描き出すことに成功した。もちろん、原作版『ウォッチメン』に登場したキャラクターたちの物語だって忘れてはいない。「人類史上最悪のジョーク」を遂行したオジマンディアス(ジェレミー•アイアンズ)のその後、次第に父であるコメディアンへと近づいていくシルク•スペクター二世(ジーン•スマート)、謎に包まれた始まりのヒーロー'フーデッド•ジャスティス'誕生の物語が絡まり合い、次第に衝撃の真実が明らかになっていく脚本も実に見事。全てを傍観するだけだったはずのDr.マンハッタンが遂に「沈黙」を破った先に待ち受ける結末は、驚くほどの興奮と感動に満ち溢れている。不平等で不条理であまりにも残酷な運命に翻弄されながらも、自らの「愛」と「信念」を貫こうとする不器用な人間たちの戦いにはついつい胸が熱くなる。とはいっても、「ロールシャッハの扱いが軽くないか?」「オジマンディアスってこんなキャラクターだっけ?」「やっぱり、到底原作には及ばないよな」など、やはり欠点が多いシリーズであることは間違いない。本シリーズをムーアが認めることはまずないだろうし、リンデロフだってそれは承知の上だろう。だが、それでも彼はやり抜いた。誰も見たことがない全く新しい『ウォッチメン』を見事に完成させてみせた。個人的には不満も多いが、ここまでやられたら流石に認めざるを得ない。お見事‼︎
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