ヤマダタケシ

呪怨:呪いの家のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

呪怨:呪いの家(2020年製作のドラマ)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

2020年7月12日 Netflixで

【インスタントな快感としてのホラーを与えてくれる作品では無い】
 ある意味でだけど元々の呪怨シリーズ(ビデオ版から劇場版2作目まで)ってより純粋な形で、言い方はあれだけどインスタントに〝怖い〟を与えてくれる作品だったと思う。基本的に恐怖演出のオムニバス、一本がだいたい10~20分以内の怖いオチのつく短編がいくつも続く形で、それによって観客を飽きさせない作りになっている。
 モチロンその短編の一個一個が重なって行く事によって呪怨という現象、その場所、それが起こされるに至った真相に近いものは描かれていくわけだが本質はあくまで〝怖い演出のつるべ落とし〟にあったと思う。
 そこから考えると今作は少し趣旨が違うというか、恐怖を感じさせる演出としてのホラーをやろうとしたというよりは、何か得体の知れない現象を突き詰めるという意味でのホラー、さらに言ってしまえば〝向こう側〟についての映画だった。
 そのため、正直インスタントな恐怖としての呪怨(それは富士急のジェットコースターみたいなエクストリームさ、〝最恐的な〟)が好きだった人からするとちょっと違うものだったかもしれない。
 そもそも今作は呪怨の前日譚ではなく、『呪怨』というヒットシリーズの(ウソの)題材になった複数の事件があって、という前提のもとで作られてるので、その時点でいわゆる作品としての『呪怨』からは距離をとった作品になっている(これはある種モンスターとしてネタ化した伽耶子と俊雄を使わないで呪怨の続編を作る手段でもある)。
 つまり当初の段階から、元々の呪怨的なホラー演出が表層的な部分での起こった事を描写していたのに対し、今作はそれがどういう現象だったのか調査するような形になっているわけだ。

【『霊的ボリシェビキ』の構造】
 今作の話の構造は脚本である高橋洋の『霊的ボリシェヴィキ』に似ている。つまり複数の〝向こう側〟の端っこに触れた経験をした人の体験談が重なって行くことによって、感覚的な部分での共通点が生まれ、その場所が高まり、それを聴いていた人が最終的にその〝向こう側〟を垣間見るというもの。
『霊的ボリシェビキ』においては、実際の〝向こう側〟を見た経験自体が語られていくが、今作ではその体験談に当たる部分が80~90年代に日本であった様々な猟奇殺人事件になっている。
 80~90年代、ワイドショー花かりし時代においてひとつひとつの事件がTVや週刊誌によって〝物語〟になった時代。それらで語られたいくつもの事件の実は知られていない共通点として〝あの場所〟、つまり『呪怨』の題材になった呪われた家が出て来て、その場所にたどり着くことが、〝向こう側〟を開く事に通じる。実際に当時起こっていた事件について知らせるニュース映像を知らせるTVの中に、作中で起こる実際に起きた事件に近い形でのフィクションの事件が起こる事は、当時の時間の中に〝呪怨〟というフィクションを挿入していく、フィクションによる歴史改ざんである(これは面白い試みであると同時に、道徳的にはかなりどうなの?ってものではある。このドラマを観た人の少なくない人はこれの元になった実際の事件をすぐ思い出す。その事件には被害者がいて加害者がいて、その遺族や家族、実際の当事者は今も生きていると思う。そもそもフィクションで実際に起こった事件を扱う場合の暴力性は存在している(もちろんフィクションでそれを描く事がある種の救いになることもある)。その中でも今作における、複数の出来事を〝猟奇的に〟〝忌まわしいこととして〟〝大きな呪い〟の中にまとめてしまうのは、当事者の事を考える時にかなり酷いことをしていると思う。それはある意味で当時のマスコミのスキャンダルをかきたてる雰囲気(映画『コミック雑誌なんていらない』1986)とも近く、この作品が醸し出す当時の空気感を引き立てる上で必要なのかもしれないが)。
 ボリシェビキにおける話の聞き手は韓英恵演じるよく分からない女性だったのに対し、今作は怪談収集家がそのポジションになっている(ここら辺がミソジニーっぽさに通じてる気がする)。彼が究極の怪談である呪いの家について探っていくことは、「何故怪談を集めるのか?」自分のしていることの意味が分からない彼自身の存在意義を探していくことで、それは物語上彼のアイデンティティの根本を辿って行くことでもあります。
 物語が後半に行くに従って、実は今作がかなり怪談収集家個人の物語だったことが明らかになり、恐らく彼自身が〝向こう側の存在〟として爆誕することも含め、とてもボリシェビキに近い気がする(恐らく怪談収集家である彼は、構造の中で〝あの家から出てきた男の子〟であり(彼の母親がいない事などもそれを補強する)、彼が生かされているのは、恐らく彼自身があの現象を生み出す元凶だからなのではないか?(結果として順序的には最初のひとりである本庄はるかをあそこへ導いて行くのは彼なわけだし)何度も出てくる「一緒に埋めて」は赤ん坊を外に出してしまう事によって呪怨が続くから、それを阻止するための行動にも思える)。

【ウロボロス、繰り返しの構造】
 元々の『呪怨』シリーズが、その膨張する呪いの根源として伽耶子という個人とその周辺に集約していく(ハリウッド版は無視した場合)の対し、今作は呪怨という現象、あるいは〝あの家〟自体にその根源が集約されているような気がする。
 〝男に拉致され、屋根裏部屋で暴行され続けた女が妊娠し、出産。逃げるために女は男を殺し、その後女自身も死亡。子供の行方は不明〟という出来事がそもそもあの家に呪いをかけたきっかけのようである。その女の霊、子供の霊がそこに来た人間を取り込むような。
 しかし、ラストでその拉致された女こそが、恋人をこの家の怪異で奪われ、この家の真相を探っていた本庄はるかだと分かる(時間を越えて男がはるかを拉致する)。
 つまり、この呪いをどうにかしようと動いていた今までの行動が、結果として〝呪怨〟自体を完成させるための行動で、このドラマ全編を通して登場人達は〝こうなるように〟動いていたのである。
 ここにおいて霊になったはるかの恋人が何度も「逃げて」「行っちゃだめだ」と言っていた意味が分かるし、作中で何度か登場した女の霊(本庄はるか?)が赤子を「一緒に埋めて」と言って渡した意味も分かる(多分それが呪いを回避する方法だと思っている。しかし、それが結果として呪いを伝播させる)。
 物語全体を通してその原因である女性の辿った過程こそが、そこから端を発したいくつかの事件によって組み立てられている事からこれが誰かの感情によって起こされたものでは無く、終わりがはじまりになっているようなウロボロスの構造であることが分かる。
 つまり、これは誰かの情念によって引き起こされたものでは無く(もしかしたらそれもあるのかもだが)、通常の思考では理解できない何かバグのような事がきっかけで起こった場所や現象なのだと言うことが分かってくる。そのきっかけに何かしらの情念は関係していると思うが、それに先立って現象が存在している。
 で、現象とは何かというと〝似たような惨劇の再生産〟だと思う。〝〝暴力的でもある〟望まない形での性交渉の結果、妊娠した女性。最初はただ暴力を振るわれる側だった女性が、ある臨界点から裏返り魔女化する(何かに目覚め、それまで肉体的な暴力で彼女を支配していた男性をある種精神的に支配していく)〟〝女性が差し出す毒を毒だと知りながら男が飲み込む〟〝生まれた男子の行方が分からない〟これらいくつかの共通点を抱えた似たような陰惨な出来事が何度も繰り返される。
 それは最初にあった陰惨な出来事①自体が、その後に起こる陰惨な出来事②を引き起こす要因にもなっているのだが、重要なのはその場所でそれが(バグのように)繰り返されることによってその場所がそういう場所になってしまっているという事なのだ。さっき①とか②とか書いたが、順番は正直関係無く、そこがそういう場所になってしまっているのだ。
 これはカネコアツシの漫画『SOIL』の理論にかなり近い。〝日常の外側に非日常がありさらにその外側に何かわけのわからない物がある。日常と非日常が極端に近づくような出来事(猟奇殺人事件とか)が起こるとスキマが生まれそこから訳の分からないものが入り込んでしまう〟というもの。今作も理解できないけど理解できるような、そのような理論で物語が回る。
 結果、どちらが先か分からないがあの場所自体がそういう事件を何度も繰り返す場所になってしまい、それが訳の分からないものを呼び寄せる。またそこに関わった人はその場所に取り込まれてしまう。それは黒沢清『廃校綺譚』の強化版のように、時空が捻じれ何度も繰り返すその場所で、怪談の登場人物自体がその場所を怪談の場所として何ども繰り返す、Aが家を訪れた時に背後に感じたBの気配は、Bが家を訪れた際に鏡に映ったAだったというような。そのようにその場所に出来事がたまり、出来事が出来事を呼び寄せる事によって呪怨という現象は起きてしまう。

【ミソジニーと本来の『呪怨』が持つヤダ味の強化】
 今作ただでさえ胸糞が悪い〝妊婦に対する暴力〟〝レイプ〟〝淫乱な女〟〝人生を転落していく女性〟の話が、物語の性質上何度も繰り返される。そこにはミソジニー的な側面を感じざるえないし、これに嫌悪感を抱く人は大勢いると思う。
 そもそも今作は『呪怨』というシリーズの題材になった出来事、という作りになっているのだが、そもそもこの『呪怨』という作品自体が、恐怖にまして生理的な嫌悪感で作られた恐怖の話である。嫌悪感というかビンボー臭さ?『呪怨』における伽耶子、俊雄というホラーモンスターが他と一線を画すのは、その背景にうっすらと見える、底辺感というか、近所のウワサの家族を窓のスキマからのぞき見した時のような嫌悪感があるからだと思う。そこにはDVや浮気、ストーカーなどの要素がある。さらに『呪怨』における恐怖はかなり男性的な目線から作られた恐怖である。妊婦や懐かない子供、これらは男性から見た他者である。
 『呪怨』自体ははっきりと名言はしないがこれらの要素をちりばめる事によって成立した嫌悪感によって引き立てられたドラマである。他のホラー映画以上に『呪怨』を観た後に〝嫌なものを観た〟と感じるのはここの部分が印象的に配置されてるからだと思う。
 で、今回のドラマ版ではそのモチーフがよりはっきりと、より女性の当事者に近い共感できる(つまり伽耶子のように誇張されたビッチ感ではない女性によって)女性の視点で、何度も繰り返される。
 今回のドラマのテーマとして〝普通の女性がそこに踏み入れた事で禍々しいものになっていく〟というのがあるからそれはしょうがないと思うのだが、女性が何度もいたぶられる姿を見せることで、若干その外側の性的な興奮があるのは確かだと思う。
 またそもそもの呪怨シリーズにも伽耶子というキャラクターの背景に見える女性嫌悪的なモチーフはあったと思うのだが、ドラマ版は実質〝伽耶子にされてしまう〟物語なので映画のように伽耶子に襲わせることが出来ない。結果として直接女性の人物に振るわれる暴力は男性が行うことになり、より先ほどの言った〝いたぶられる女性を見ている外側からの視点〟の背後にいるのが男性のように思えてくるのだ(ちょっと意味合いは違うが復讐しない女囚さそり感?)。
 伽耶子は顔すら分かりづらいキャラクターであるが、今作は明確に美人な女優がその犠牲者として何度も描かれていて、恐怖とともに恐怖する女性に興奮するという部分がかなりある作品ではあった(映画の呪怨には無い)(多くのホラー、モンスター映画にこれはある)。


・古今東西あらゆる作品において〝向こう側〟を目指した末にマッドになっていくキャラクターって割と男性が多いし、その狂い具合を示す描写の中で女性が犠牲になるってのも多い(気がする)。