Ricola

生れてはみたけれどのRicolaのレビュー・感想・評価

生れてはみたけれど(1932年製作の映画)
4.3
小津作品といえば家族というテーマがすぐに思い浮かぶが、とりわけ子供を生き生きと等身大で描くことに長けていることに異論はないだろう。

知らない土地に両親と引っ越してきたばかりの、兄弟である良一と啓二。
同年代の子供たちとのやり取りや、両親を含めた大人たちに対する態度などは、現代の子供のそれらとあまり変わらないのだと思わされる。

とはいえ、子供たちを観察して描くだけにとどまらず、映画の構成や人物とのバランスが計算されつくしている点はさすが小津監督だとうなされる。


登場人物とその他映像情報がうまく絡み合って生まれる統一感の形成は、電車というモチーフがかなり役立っていると考えられる。
良一と啓二の家のすぐ前には線路があり、電車が走っている。
線路沿いを歩いて彼らは登校するため、電車が背景として常にそこにあるのだ。

電車がちょうどよいタイミングで通る。
例えば、兄弟の家に遊びに来た彼らの友だちが手招きをしたり声をかけると、その動きに呼ばれて電車が通る。
良一と啓二に喧嘩で負けて泣いて帰っていく子供二人が線路を越えたらすぐに電車が通り、場面転換することもある。
さらに先生と兄弟のお父さんが話をしていて、別れの挨拶でお互いに帽子をとってお辞儀をしたタイミングでも電車が彼らの後を通り過ぎる。
そして、子供たちが走ってフレーム外に出ていくと、それを追いかけるように電車が一瞬で画面を通り抜けていく。
このように、人物の動きに呼応して電車が現れることが、作品のアクション的な要素となっている。

また、電車とともに大事なモチーフである踏み切りの意義についても考えたい。
引っ越してきたときには車で踏み切りを渡り、仕事へ行くお父さんは兄弟の友人の太郎ちゃんのお父さんである上司の車に乗せてもらって渡る。
作品の始まりと終わり、そして兄弟の初登校日のときという区切りの際に踏み切りを彼らは渡るのだ。
何かを越えて向こう側に行くことは、人生の節目を意味し作品自体の明確な位置づけにもなっているのではないか。

次に、子供を描くということについて述べたい。
屋外での食事は、小津映画で頻繁に繰り返される行為である。
兄弟で学校をサボって野原でお弁当を食べるシーンと、拗ねた二人が母親に勧められて庭でおにぎりを食べるシーンがある。外で食べることは非日常的な行為であり、このことによって人物の内面で良くも悪くも何かが芽生える。
彼らの行動が加速したり、もしくは考えを見つめ直す契機となるシーンなのだ。

視線を合わせたり、息の合った動きを見せる兄弟。お父さんに褒められようとするときも、お父さんに嘘がバレたことを察したときも、兄弟が合わせて笑顔を見せたり顔を俯いてから上目遣いをするタイミングも、ポケットに手を入れるタイミングも一緒である。
この同時性は子供たちの可愛らしさを演出すると同時に、作品のテンポ感としてアクセントにもなっている。

教室内での子供たちの団結力も、同時性ととらえられるだろう。
一人の生徒が叱られているとき、他の生徒たちはその様子を見たがる。
彼らの顔がカメラ方向に集中しているが、先生の視線を感じるとほぼ一斉に前を向くのだ。

子供にもプライドはあるけれど、大人が思っている以上に親を絶対的存在だと信じている点が、愛おしいと同時に危ういところだろう。
親はそのことを理解したうえで子供を愛おしんでいる。涙の跡が頬にライン状に残っている兄弟の寝顔を両親は見つめるシーン。その視線があまりに優しくてつい涙がこぼれた。

子供を一人の人間として尊重することがそこまで浸透していない時代において、彼らを正面からありのままの姿で描き出した小津のあたたかな眼差しに癒やされ、見事なアクションの呼応関係にしびれる傑作であった。
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