アニマル泉

勝手にしやがれ 4Kレストア版のアニマル泉のレビュー・感想・評価

5.0
全てが瑞々しく、自由で、革新的で、躍動感に溢れる至高のフィルム。シャンゼリゼ通りの伝説のワンカット、丸めたポスターから覗きこむベルモンドのアップから直結のキスカット、ラストのベルモンドの横顔、映画史に燦然と輝く奇蹟のショットの数々で至福に包まれる。パリが、ベルモンドが、セバーグが、みんな息づいている。映画を撮る喜びに満ち溢れている。

2016.8.14 K's cinema
再見
冒頭のマルセイユからシャンゼリゼ通りまでの疾走感は何度見ても圧巻。編集、音、セリフ、音楽が力強くコラージュされていく。フラーを彷彿とさせるガツンとしたアップの連打と、一転した長回し。まさに自由自在。恐るべき処女作だ。そしてこれほど映画愛に満ちたフィルムはない。「見つめること」が作品の大きな主題になっている。「目をそらすまで見つめるわ」「真っ暗になるようきつく目を閉じる。でもダメなの。真っ暗じゃない」「不思議ね。わたしが目に映ってる」パトリシアとミッシェルの愛のセリフはまるで暗闇の中でスクリーンを見続けてきたゴダールの映画への信仰告白のようだ。ゴダール特有のカメラ目線は、スクリーンを見続けたゴダールが今度はスクリーンの向こうから、スクリーンを見つめている我々観客を鷲掴みにしてくる。もう一つ、あたりまえの価値が揺らいで、ズレて、相反する二つのことが渾然となってしまうのがゴダールの世界。視点が複数化されて事柄の輪郭が曖昧になる。愛することと裏切ること。生きることと死ぬこと。その矛盾が共存してしまう。そしてそこに至る葛藤は一切描かれない。映画のすべてはアクションとエモーションであり、文学的な抽象は排除されるからだ。「悲しみと虚無ならば虚無を選ぶ。悲しみは妥協だ」のセリフどおりに、ゴダールは人物の行動に至る心理の過程を情緒的には描かない。密告者は密告するだけだ。では「怖い。愛されたい。同時に愛してほしくない」パトリシアの不安と絶望はどうなるのか?その答えがまさにラストカットのカメラ目線のパトリシアの仕草だと思う。

2016.8.16 K's cinema
再見
①なまめかしさに酔う。パトリシアの部屋の場面。見つめあう二人の距離が暴力的に破棄されて突然唇が重なる2アップのなんたるなまめかしさ!視覚から触感へのエロス。丸めたポスター越しのベルモンドのアップから直結のキスカットはサミュエル・フラーの「四十挺の拳銃」からの伝説的な引用だが、突然涙ぐむパトリシアからの一連のモンタージュはやっばりエモーショナルで心を鷲掴みにされる。そしてクタールの撮影もなまめかしい。ほとんどの場面が屋外が見渡せるロケーション。屋内と屋外の難しいハイコントラストを見事にしかも長回しでなまめかしく捉えている。さらに夜のパリが高感度フィルムでなまめかしく息づいている。②自動車について。ゴダールの作品では走る自動車の中が男女のいちばん幸せな場所だ。車が次々と盗まれて交換されるのは唯一の幸せな場所をひたすら求めているかのようだ。そして「気狂いピエロ」でも本作でも車を捨てたり、乗ることをやめた時に破滅が訪れる。③ミッシェルとパトリシアについて。ミッシェルが憧れるハンフリー・ボガート。ゴダールは間違いなく二人を恋人以上に「脱出」のハンフリー・ボガートとローレン・バコールのような「同志」「相棒」にしたかったのだと思う。あるいは「気狂いピエロ」のベルモンドとアンナ・カリーナのように。しかし憶測するにジーン・セバーグは理解出来なかったのではないだろうか。パトリシアがミッシェルを犯罪者だと分かり、共犯して自動車を盗む場面からラストまでがどうも上手くないのだ。腑に落ちてないのだろう。この役は出来る役者と出来ない役者を残酷に峻別する。小悪魔じゃないとダメなのだ。男が堕ちてもいいと思う女。アンナ・カリーナだったらラストカットの愛と絶望が炸裂したと妄想する。

2022.5.5 シネ・リーブル池袋
「戦争ドキュメンタリーのようにラブ・ストーリーを撮ってほしい」ゴダールが撮影のラウール・クタールに要求したとパンフレットに坂本安美が書いている。クタールはもともと戦場カメラマンだった。本作はB級映画のモノグラム・ピクチャーズに捧げられたフィルム・ノワールだが、実はすぐれたメロドラマである。ゴダールはメロドラマの名手だ。劇中に3回の美しいツーアップのキスショットがある。伝説のポスター越しからのキス。長いアパート場面の最後に服を着た2人のキス、このツーアップからパリの空撮への編集が官能的だ。そして映画館の中でのキス。ゴダールはキスシーンが上手い。4Kレストア版。
アニマル泉

アニマル泉