うべどうろ

東京2020オリンピック SIDE:Aのうべどうろのレビュー・感想・評価

東京2020オリンピック SIDE:A(2022年製作の映画)
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「世界」と「日本」 
河瀬直美のイデオロギー

 東京オリンピック。それは、そのもの自体が評価・批判することの難しい賛否両論の存在であるように思われるけれど、同大会を記録したというこの作品もまた、観客が評価を下し、意見を述べることを拒んでいるような印象があった。それはひとえに、「東京2020オリンピック SIDE:A」について我々が語る瞬間、否が応でも発言者の“思想”が垣間見えてしまうからに他ならない。この作品に賛同するにせよ、批判するにせよ、それは私たち自身がもつある種の“哲学”がそうさせているような印象をとどのつまり拭えないからである。それは、我々が多くの映画作品について発話する際に依拠する「感想」という位相を超えた、「イデオロギー」的な世界観の中に放り込まれる感覚に近い。そうなる理由もまた明確である。それはもちろん、この作品自体がイデオロギーの発露に他ならないからであり、その思考する主体にはいくつかの見方ができるとは思うけれど、カンヌ国際映画祭での監督の発言を鑑みるに、おそらく「河瀬直美のイデオロギー」の表象である可能性が高そうだ。この作品を観た我々は、その「河瀬直美のイデオロギー」への反射的反応として、自己のイデオロギー(簡単にいえば、“何を大切にしているか”)を想起させられてしまうのだ。
 その点で、この作品は成功しているのかもしれない。一つには映画作家である河瀬直美の「作家性」の発露としてこの作品をとらえられることであり、もう一つは(明らかに河瀬直美が要求している)「考える」ということを観客に否応なく強いている点である。その背景には、「ドキュメンタリー」や「記録」といった名ばかりの枠組を隠れ蓑とした河瀬直美の演出が貫かれており、“東京オリンピック”という無限大の役者・小道具の揃った最高の舞台というお膳立てがある。その意味で、極めて“技巧的な映画”なのだ。それは恰も、二重スパイのような身のこなしであり、“仲間を売る”ような後ろめたさをあらゆる人に強いているのではないか。「この作品を批判するの?それはこの作品に描かれている“テーマ”を批判することだよ」と。この強制力は、河瀬直美の主体が第一義として立ち現れる「劇映画」では成立しえぬものであって、「オリンピックの記録映画」という公的ドキュメンタリーという形態をとるが故に実現されるものではないか。今回の“レビュー”では、可能な限り客観的な視座を意識しながら、この「自分自身を立ち上がらせる」という映画の魔力に打ち勝つべく、河瀬直美が仕込んだイデオロギー的演出を繙いてみたい。「SIDE:B」の公開前に書くということに、一抹の躊躇いはあるが、そのことについては最後に記すことにする。

 まず、この作品に貫かれている自明な「二項(対立)」について了解を得たい。それは「世界」と「日本」という枠組であり、「東京」という都市で開催されたオリンピックについて語るとき、その二項はすべからく意識されると考えてもよいだろう。通常の意義でいえば、「開催国」と「その他」であるが、この作品におけるその二項の関係は、それ以上の、いわば「地理的な区別」を超えた視座でとらえられているように感じた。まずは、そのことから分析を始めよう。
 作品冒頭、「君が代」の音楽が先行する形で画面に浮かび上がるのは、「雪の舞う桜」という極めて日本的な表象である。国家とともに、日本人の精神性を象徴するとも言われる「桜」が描かれることは、考え得るかぎり最もシンプルな「日本」という舞台設定の説明であろう。※ここで降る「雪」を、四季の表れとして日本的なものの表象ととらえるか、「桜」と対をなす(あるいはチグハグな)表象としてとらえ、あとに続く「オリンピック」と「コロナ禍」というチグハグな同時間性の表象ととらえるかは、意見の割れるところだろう。
 その後、物語全体のテーマを予感させる子供達の姿が数カット重ねられ、(必然的に差し込まれる)コロナ禍にあえぐ医療現場のカットなどが続き、作品は「オリンピック物語」の始まりである「聖火の点火式」へと続いていく。この段階では、極めて時間軸に沿った形で「オリンピックの開会」までの道程が記録されていき、正直面食らうほど“普通の導入”であった。もちろん我々から見れば、そこに写る「森喜朗」の姿に皮肉を感じることも可能であるし、意図されているかもしれないが、そのことに関する直接の描写は「SSIDE:B」に譲っていることから考えるならば、この段階ではあくまでも「形式的なプロローグ」なのであろう。
 さて、冒頭部分、森喜朗により一年間の開会延期が宣言されると、極めて印象的なシーンへと突入していく。それは、コロナ禍の“人がいない世界”であり、あらゆる国の大都市が、その空白をもって横並びにされる。ここでは、各都市、各国に差異はなく、コロナという疫病を前に人類皆平等と言わんばかりの同質化がなされている。
 ここで、前提は整った。コロナ禍で、あらゆる国と地域が平等に「空白」を強いられて訪れた2022年の東京オリンピックの開会である。まずは、そのことを「世界」と「日本」をいう枠組も含め、理解しておきたい。
 もう一つ、この冒頭部分で大切なことと言えば、作品全体を貫くメッセージの明記である。それは、もちろん「個々の試合の勝ち負けではなく、人生の勝利を掴む」ということである。意味不明なほどの超アップな映像で顔面をとらえられた男性が語るこの言葉を、この作品はいわば「開会宣言」のように扱っているのではないか。その前後で語られる“柔道”というジャンルのなかで語られる1964年との対比は、「二度目の東京オリンピック」ということを印象づけ、日本、あるいは柔道という主体が背負う「過去」も明確にした。このことが、実は後々大切な伏線になっている。このあたりは、さすが河瀬直美といったところだろうか。プロローグに必要不可欠な要素を提出するとみせて、彼女のイデオロギーに直接接続するような伏線を張っているのである。
 
 ここで、このあと語られる競技内容を(記憶のかぎり)並べておこう。
 ○シリア出身トライアスロン
 ○シリア出身水泳
 ○カナダ代表バスケット
 ○日本代表バスケット
 ○日本代表ソフトボール
 ○(さまざまな)スケートボード
 ○アメリカ代表ハンマー投げ
 ○アメリカ代表短距離走
 ○イラン出身柔道
 ○ウズベキスタン代表体操
 ○(さまざまな)サーフィン
 ○(どこかの代表の)女子マラソン
 ○日本代表空手
 ○日本代表柔道
 おそらく不十分であるし、順番はあやふやだが、主立った種目は上記ではないか。

 多くの観客が気づいたことであると思うが、これらの種目には、描かれる対象による明らかなラベリングがあった。それは、「移民/難民」(シリア出身の兄弟、ウズベキスタン代表の体操、イラン出身柔道家)・「母であるアスリート」(カナダ代表バスケット、日本代表バスケット、アメリカ代表マラソン)・「人種的な問題」(アメリカ代表ハンマー投げ・アメリカ代表短距離走)、そして新競技(スケートボード、サーフィン)と日本である。
 このラベリングに、鑑賞者である私の視点が入り込んでしまっている危険性はあるものの、おそらく多くの観客が同意してくれるのではないだろうか。そして同時に、きっと河瀬直美の意識もまた、これらの「テーマ」に注がれているような気がする。※もちろん、これ以外のテーマも隠れているかもしれないし、同一のテーマとして各国の問題をひとくくりにする誤謬は念頭におきつつ、今回はこのラベリングという構成に基づいてみたい。

 冒頭に延べたように、今回私が指摘したいのは「世界」と「日本」の二項についてである。上述のとおりに構造解析をしたとして、それらの「テーマ」の中軸をなすのは、どれも「世界のアスリート」であった。それは何故か。おそらく決定的な要因は「個人」として描かれる海外アスリートに対し、「集団」として日本のアスリートが描かれているからではないか。あるいは、作品冒頭の「開会宣言」に立ち返るならば、「人生の勝利」を掴む海外アスリートに対し、「スポーツの勝利」を掴む日本アスリートなのかもしれない。そう考えるに足るヒントはいくつもあった。
 初出は「日本代表女子バスケット」のコーチが発した「日本は、、、teamを大事にしなければならない」という叱咤激励であった。それは一見すると、teamとしての団結を鼓舞する言葉ともとれるが、後半の「アメリカやフランスはこういうteamではない」という比較、あるいはそのteamから外れた女性(この時点で、母ではあるがアスリートではない)が涙を流すシーンから想像するに、「個」をある種犠牲とする日本のteamが見えてくるのではないか。
 このことは、続いて「日本代表女子ソフトボール」における個人の物語の欠如(上野選手も後藤選手も、競技について語ってはいるが、個人については何も語っていない)からも予期されている。彼女たちにとっての「人生の勝利」は全く語られず、「日本代表の金メダル」という「スポーツとしての勝利」が描かれる。この「人生の勝利」と「スポーツとしての勝利」の比較で考えるならば、イラン出身のモンゴル代表として出場した選手が決勝戦で敗れた相手は日本代表であった。そのシーンの背景で、河瀬直美は、彼の「辛抱強い者は勝利を掴む。スポーツとしての勝ち負けではない、人生の勝利だ」(細部はあいまい)という決定的な名言を重ねる。それはあたかも、スポーツとしての勝利を掴んだ日本選手を揶揄するかのような印象さえ受ける。 
そして、日本代表男子空手では、喜友名選手が「(おそらく)母の遺影」を手に持っているにもかかわらず、その個人の物語は、雰囲気ありげな(でも意味不明な)フィルムカメラ風の唐突で違和感満載の演出でごまかされ、「沖縄」という地域の問題へとすり替えられていく。役場職員?は、「空手が沖縄発祥であることを知ってもらえれば」と、喜友名選手の勝利を「個人」ではなく「集団」のなかで意味づけし、地元住民のインタビューもまた、個人の物語を剥奪し、地域としての勝利へと着地する。この点において、上述のカテゴリー「人種的な問題」に位置づけることも可能であるのかもしれないが、どうも他選手の描き方とは違う歪な印象を受けた。
 極めつけは、「日本代表男子柔道」である。これは、注視される大野選手の個人の物語であろうか。私はそうは思わない。その理由は三つある。一つには、大野選手自身がつかう「われわれ」という言葉である。そして、彼が語ったとされる「怖かった」という応答は、明らかに彼が「日本」を背負っていることを暗示しているのではないか。そのことを証明するように、第二の理由として挙げたいけれど、この種目は団体戦の敗北として着地する。大野選手の個人の物語であれば、この団体戦は必要であっただろうか?「個人の勝利、団体の敗北」という意味深なメッセージを感じ取るのは、あまりにもお手盛りの解釈であろうか。そして三つ目は、冒頭からはられた伏線、柔道だけ明らかに1964年という過去を引きずっていることだ。「ロンドンで一つでも金を取れたら、ここまで変われてはいなかった」「ハラキリする覚悟がある」「変わるべきこともあれば、変わらないこともある」といった発言は、明らかに大野選手個人の物語ではなく、「男子柔道日本代表」という「集団」の物語という枠組で、それを背負う「個人」としての大野選手という描き方ではないか。
 つまり、これらのどの種目をとってみても、日本代表は明らかに「個人の物語」を剥奪されて、「集団」(あるいは「日本」)の物語として描かれているのではないか。そして同時に、「スポーツとしての勝利」に固執する集団であり、「人生の勝利」を手にする個人ではないという印象さえないか。この描かれ方をどうとらえるかは、冒頭で書いたように「イデオロギー」の世界での論争であると思うので、ここでは省きたい。しかし、河瀬直美の意見は明らかだ。
 柔道のシーケンスで語られる「変わるべきこともあれば、変わらないこともある」という言葉と対をなすインタビューがある。それは作品冒頭、カナダ代表の母である女性アスリートが語る「2021年よ、変わらなきゃ」という言葉。彼女は、この言葉をもって、「乳児を連れていけない」という集団の規則に反発し、子供を連れて、母乳で子育てをする「母」としての在り方と、「アスリート」としての在り方を共存させることを目指す。それこそが、個人の選択の結果として得られる個人の物語であり、そして、もちろんそれは成功している(ように描かれる)。一方、「変わらないこともある」と豪語する日本はどうか。その象徴として、カナダ代表と対照で描かれる女子バスケの元日本代表選手は、「ルールに反発できないだろう」と自らを省みながら、子育てをする「母」であることを選択し、「アスリート」であることを放棄していた。彼女が流した涙は、「うれし涙」とはみえず、どうしても「悔し涙」として描かれているようにしか思えない。おそらく、このことが、「世界」と「日本」という二項のなかで、河瀬直美(母であり、映画監督である)が描こうとした最大のテーマであったように思う。「個人」の世界、「集団」の日本。後者では、ルールが絶対視され、個人は埋もれてしまう。「母」あるいは「女性」であれば、尚更その煽りを受けるというメッセージを感じたのは私だけではないはずだ。

 さて、このことと関係することであるが、上述の女子バスケ日本代表に立ちはだかった「母でありアスリートである」ということへの障害は、そのまま「女性」と「男性」の二項へと敷衍されていく。そして、おそらくそこにも「世界」と「日本」という二項がベン図的に重なり合っているように思う。
 その象徴が一種の「マスキュラリティ」である。日本代表で取り上げられるのは、「女性」は「バスケット」と「ソフトボール」というチーム戦であり、「男性」は「空手」と「柔道」という、どちらも“武闘”というジャンルのものである。その後者で強調されるのは「力強さの美学」であって、「世界」のアスリートで描かれる「スピード」や「技術」の理論ではない。ここに、「マスキュラリティ」のイデオロギーを見て取ることはできないだろうか。河瀬直美は、なぜ「女性の個人戦」や「男性のチーム戦あるいは非武闘的な個人線」を一つとして取り上げなかったのだろうか(「世界」の男性アスリートは、柔道という武闘派な種目もあれば、水泳やトライアスロンのような競技にも及ぶ)。この選択にはどうしても恣意的な意味合いを感じてしまう。その向こう側に透けてみえる、「男性社会としての日本」。そして、そのなかで犠牲となる「女性」、とりわけ「母」の表象をくみ取ることは当て水量がすぎるだろうか。

 ここまで見てきたように、河瀬直美はその明確なイデオロギーを、作品の構造の中へと忍び込ませ、細部におけるインタビューの選択や種目の選定においても響かせている。このことは安直にいえば、「世界に遅れた日本」という意味なのかもしれず、そのことは1964年に固執している柔道界という導入によっても暗示される。そのことの善し悪しは別として、ここではこの種の描き方の一つの危険性を指摘しておきたい。それはイデオロギーを構成する際の「選択」が意味する「捨象」という表裏一体の問題である。
 その出発点もまた、「世界」と「日本」という枠組から考えてみよう。上述のとおり、今作品の日本アスリートの描かれ方は「個人の物語を剥奪された集団美徳のなかで生きる存在」であるように思われる。では、日本代表の中で、「個人の物語」をもつアスリートはいないのか。「母」であるアスリートはいないのか。もちろん否だ。女子バレーボールの主将を務めた荒木選手や、フェンシングの佐藤選手は、河瀬直美のイデオロギー的二項対立のなかでは無視されて、「日本における母アスリート」の存在はなかったものとされている。
 このことは敷衍して、世界における重要なイデオロギーが「難民(移民)」「女性(母)」「人種問題」に集約されているような印象も、この作品全体に与えかねない。今回の大会前後で世界的な議論が波及している問題は、なにもこれらに限らない。LGBTQ、貧困、そして障害。これらの「個人の物語」をもつものは、恰も存在していないかのように作品から抹消されて、河瀬直美のイデオロギー的な世界観のなかで意味づけされた「東京オリンピック」が立ち現れてくる。この点において、冒頭で指摘したように、この作品はあくまでも「河瀬直美の作品」であるわけで、その(執拗な)「選択」が無意識に生む「捨象」された人々への配慮がこの作品には一切ない。そしてこの危険性は、突き詰めていけば、「(広い意味での)障害」=「物語」であるかのような視線すらも感じてしまうのではないか。きっと誰しもが、その人だけの「物語」をもっているのであり、五輪に出場した全選手、あるいはこの世で生きる全ての人が各自の「人生の勝利」を願って生きているのだと、私は信じたい。そのことを河瀬直美は否定しているのではないか。彼女が描く「個人の物語」や「人生の勝利」は、あくまでも、河瀬直美が選んだイデオロギーの枠内におさまる「物語」と「人生」に陥ってはいないだろうか。
 こうした議論が成立するかどうかはわからないけれど、河瀬直美が仕掛けた闘いなのだから仕方がない。河瀬直美は、「競技の記録」であることを捨て、「イデオロギーの主張」を選んだのである。それはある意味で、現代における世界的な論争の記録なのかもしれないが、それにしては偏りがすごい。河瀬直美が語る「100年後にも残るような作品」を目指すならば、正確に現在を描写してほしい(おそらく、それは無理なのではあるが)。事実、今回もまたパラリンピックについての記録映画は制作されないようだ。カナダ代表の彼女の言葉を借りるなら、「2022年よ、変わらなきゃ」。

 最後に、おそらく多くの国内における観客が感じた違和感を提示して終わりたい。それは「コロナ」との関係性の希薄さである。「SIDE:A」では、冒頭こそ「コロナ禍」という舞台説明的なカットが挿入されるものの、いざ大会が始まると、その描写は雲散霧消する。そこに違和感を覚えた人も多いのではないか。「コロナ禍のオリンピック」ではなかったか。「コロナ禍に大会を強行した政府や協会への批判はないのか」と。そのことについて、私なりの意見が二つある。
 一つには、「SIDE:A」はあくまでも国外に向けた作品なのではないかということだ。「難民」「ジェンダー」「人種問題」はどれも世界的にみれば、ここ数年で顕著に思考されているテーマであるし、これらを今記録することの意味は間違いなくあるのだ(これらだけでいいか、という問題は上述)。反対に、「政府と五輪」や「コロナ禍の五輪」は、もちろん国際的な問題でもあるが、国内事情に関わる部分も多い。おそらく、その意味で、国内視点としての「SIDE:B」ではないかと期待している。
 もう一つは、「東京オリンピック」会期中の日本を表象しているのではないかということだ。あのときを振り返ってみれば、大会直前まで叫ばれていた「五輪反対」の声は、開会式以降すぼみ、テレビや街中は五輪の話題で持ちきりになった。この皮肉な状況を見事に反映しているとも考えられる。「SIDE:A」と「SIDE:B」と別個に作品化したことも、否定的にみれば「本来表裏一体だったはずだ」「それを別のモノととらえるから問題が埋もれたのではないか」とも考えられるし、あるいは「でも、これが当時の日本だったよね?」とも考えられる。

 あまりに長文になってしまったが、観客の少ないこの作品を“今”見るのであれば、これくらいの分析を(文字通り)“記録”しておくべきだと思ったが故である。もちろん、あくまでも個人の意見であって、「客観的」を目指しても、おそらく多分に主観的だろう。「SIDE:B」も必ず見るつもり。どんな印象を受けるか、とても楽しみである。あるいは、「SIDE:A」の見方も変わるような作品を、心のどこかでは求めているのかもしれない。
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