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TAR/ターのtanayukiのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.7
名門ベルリンフィルはじまって以来の女性首席指揮者であり、作曲家としてもEGOT(エミー、グラミー、オスカー、トニー)の4冠を達成し、名声をほしいままにしていた現代音楽の騎手リディア・ター。指揮者として、バークリー音大の特別招聘教授として、楽曲やプログラムの選択や解釈、タイムコントロールはいうにおよばず、誰をソロに抜擢し、誰を解雇するか、オケメンバーやスタッフ、学生の人選や人事までも掌握して、絶頂期を謳歌していた女帝が、ある告発をきっかけにそこから転がり落ち、金も名声も人間関係もすべて失って、堕ちるところまで堕ちる顛末をドキュメンタリータッチで描く。あまりのリアリティに、リディア・ターを実在の人物と勘違いする人まで出たとか出なかったとか。

「自分には必ずできる」という自信も、「自分はこれだけのことをやってきた(から次もできる)」という自負も、才能をのばし、実績を残すうえでは不可欠の要素だが、上り調子のときは強力な武器だった自信や自負は、守りに入ったとたん「負」に転じ、みずからを縛る足かせとなる。とくに、自信が過信になり、「自分は何でもできる」という万能感をもってしまうと、やがて「自分は何をやっても許される」という勘違いにつながってしまう。いったんそうなると、「王様ははだかだ」と指摘してくれるいちばん親しい味方(本作ではフランチェスカやシャロン)まで遠ざけるようになり、それまでちやほやしてくれた周囲の空気が一変して、嫉妬とやっかみ、足の引っ張りあいに巻き込まれ、あっというまに転落する。

この映画のテーマをキャンセルカルチャーだと指摘している動画をいくつか見たけど、キャンセルカルチャーはどちらかというと、過去の言動を引っ張り出してきてSNSで糾弾する「揚げ足取り」に近い。なかでも、ハラスメントなどの具体的な事実がなく、ただ過去の暴言・失言を掘り出してきてSNSで晒し、その地位や職を奪おうとする行為については、言論の自由(どんなに歪んだ意見であっても、それを表明する自由は誰にでもあり、意見を言うこと自体は誰にも制限されない)とのかねあいもあって、やりすぎだと否定的なニュアンスで語られることも少なくない。

女帝リディア・ターに関していえば、セクハラやパワハラは明らかで、単なるキャンセルカルチャーの問題ではなく、ハーヴィ・ワインスタインを告発した「SHE SAID」と並んで、そちらの文脈で語られるべき映画だと思う。かつてはそれが当たり前だったクラシック音楽業界にも #metoo 運動の波が押し寄せ、ジェイムズ・レヴァインやシャルル・デュトワら著名な指揮者がその地位を追われている。

リディアの悲劇は、そうした極度の男性優位社会にあって、そこでのぼりつめるために、みずからも、きわめて家父長的かつ強権的で、権力志向の強い態度を身につけざるを得なかったパイオニア女性に特有の、「そうならざるを得ないからそうしただけなのに、ようやく自分がその立場にたどり着いたら、時代のほうが変わってた」というはしご外しを、タイミング的に思いっきり食らってしまったことにある。男女平等を実現したシンボルとして、多くの女性たちから羨望と称賛のまなざしを一身に集める立場だったからこそ、女性を食い物にしたという告発のインパクトは強烈で、その転落劇はいっそう過酷なものとなった。

数年前なら、ケイト・ブランシェットは間違いなくオスカーを手にしていたと思う。トッド・フィールド監督にとって16年ぶりの作品ということで、細部まで計算され尽くしたこってりと濃厚な演出や映像美と、ケイト・ブランシェットのマジで実在の指揮者としか思えないほどの迫真の演技(例の学生やいじめっ子を激ツメしたシーンの、空恐ろしさといったら!)。だが、ダイバーシティの時代の波はハリウッドにも確実に押し寄せ、主演女優賞はアジア系初となるミシェル・ヨーの手に渡る。それはまさに、リディア・ターが時代の波のきつい洗礼を真正面から浴び、生まれ変わらなければ次に行けなかったこととダブって見える。

最後のシーンは解釈の分かれるところだが、個人的には、リディアは生まれ変わるために、一度、徹底的に堕ちなければいけなかった。堕ちるところまで堕ちたから、転生することができたんだと思いたい。その結果、リディアから、かつて彼女が身にまとっていた圧倒的なオーラが失われてしまったとしても、リディアは一音楽家として、もう一度、音楽と心からたわむれることができるようになったのだと。

時間を操ることで他人を支配するリディア・ターの魔力を解き明かしたこちらの動画がおもしろかった。ただし、「絶対に」映画を見てから見ること!→ オープニングから結末まで完全解説!!『TAR/ター』|ターの話はなぜ長い?【ネタバレ全開】
https://youtu.be/zG0OQ8fOCSI

△2023/05/17 109シネマズ二子玉川で鑑賞。スコア4.7

#TAR #リディアター #ケイトブランシェット #トッドフィールド #ヒドゥルグドナドッティル #音楽映画 #109シネマズ二子玉川 #映画館 #映画

追記:
#metoo 運動のきっかけとなったハーヴィ・ワインスタインのワインスタイン・カンパニー(映画の舞台はミラマックスだったが、ミラマックスがディズニーに買収されたあと、路線の違いからワインスタイン兄弟は去り、別会社を立ち上げていた)は最終的に破産に追い込まれている(配給作品の諸権利があるから、買い手はつくだろうけど)。日本のメディアとファンとスポンサー企業の、ジャニーズ事務所に対する煮え切らない態度がどうにも歯痒い。ダメなものはダメと、ちゃんと言わないと。タレントを守りたいなら、経営陣を総とっかえして社名変更、会社ごと売却するなど、解体的出直しが必要な案件だと思う。
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