むぅ

アンネ・フランクと旅する日記のむぅのレビュー・感想・評価

4.1
「そう思わない?ドロシー」

『天使なんかじゃない』
その漫画の中で主人公の翠がイマジナリーフレンドにそう言った時、作者の矢沢あいは『アンネの日記』を読んだ事があるんじゃないかなと思ったのを今でも覚えている。

『アンネの日記』を読んだのがいつなのか正確には覚えていない。
でもアンネより私の方が幼かった事は確か。
隠れ家での生活にちょっとだけワクワクしてしまったこと、お父さんの"オットー"という名前をお母さんが呼ぶたびに"夫"が浮かんでクスっとなってしまったこと、そして日記に"キティー"と名前をつけるアンネが好きだったこと、当時の私はホロコーストがどんなものだったかも知らずにそんな感想を持った。


舞台は現代のアムステルダム
激しい嵐の夜、博物館に保管されているアンネの日記に異変が。
"親愛なるキティーへ"
そう始まる日記のインクが浮かび上がり、1人の少女が現れる。
彼女はキティー。
自分に語りかけることのなくなったアンネを探すキティーの旅が始まる。


イメージぴったりなアンネだった。
私が大人になってもこんなに大人にはなれないだろうと思わされた『小公女セーラ』のセーラよりわがままで、そんなに我が道を行けない!と思わされた『赤毛のアン』のアンよりおませ、私も小説を書いてみたいと思わされた『若草物語』のジョーみたいに想像力のある子、アンネは私にとってそんな子だった。
そんな"私のアンネ"が動き出す。
泣いて、笑って、怒って、そして空を見上げていた。


「あなたをユダヤ人にはしたくないの」
キティーはきっとこんな子よ、そう語るアンネの口からこの言葉が出た時、苦しかった。
私がアンネと同じ年頃で、日記に名前をつけたとして、その子を自分と同じ人種にしたくないと思う事があるだろうか。
自分なりに観てきたホロコーストを扱った作品の中で、忘れられない一つが『灰の記憶』の絵画のようなワンカット。ともすると美しく見えるその光景は、煙突から上がる煙の理由を知っていると、ただただおぞましい。
アンネの言葉はその衝撃と似ていて、そして私の心を凍らせた。

現在と過去を行ったりきたりする物語の中、アンネたちと難民問題をトレースしていく。
その中でも冒頭、雨の中アンネの日記や生家を見ようと博物館に並ぶ人たちの、難民が道に張っていたテントが雨に濡れ風で飛ばされるのにあたふたするのは知らんぷりするシーンが刺さった。

私も同じ事をしていないだろうか。

問題意識のあるふりをしながら、目の前の事を見て見ぬふりをしていないだろうか。
否定出来ない気がする。

アニメーションだからこそ出来る表現が魅力的で、『人魚姫』や『シンデレラ』を思わせる"おとぎ話"のアレンジが私は好きだった。

でも思う。
もしもキティーに連れてこられたアンネが今のこの世界を見たら。
あの印象的な瞳は輝くのかな、と。

キティーが言った。
「アンネは橋や劇場に自分の名前をつけて欲しくて日記を書いていたわけじゃない」
アンネもきっと同じ事を言うと思う。
むぅ

むぅ