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クライング・ゲームのotomisanのレビュー・感想・評価

クライング・ゲーム(1992年製作の映画)
4.2
 ジェイ・デヴィッドソンのDill感は噛めば噛むほど英兵ジョディの凡庸そうな印象を引き締め際立たせる。処刑の間際、ジョディがいつの間にか縄を解いて逃走する。狙えば背後から仕留められるだろうに、ファーガソンに引き金を引かせないための「友人」としてのあの長い対話が功を奏する。「弱者」から「友人」へ、あれらは全て相手の弱点を読んでいざという時、相手が勝機を逸すよう仕向け、自身は機会を逃さず逃走を図り相手の追撃を憚らせるための懐柔戦術の内だったに違いない。Dilがジョディを格別としたのは、ファーガソンがDilを訪ねる気にさせられたあの対話能力で同じように心を解されたせいかも知れない。
 対してIRA兵ファーガソンは、関われば情がうつる。テロリストであり人質作戦にも携わるなら御覧のとおり最悪だ。しかし、常人としてならどうだろう。ジョディに関わらなければDilとも巡り合わず地元のパブでどんな厄介な女と情を交わしてしまうだろう。
 ジョディが告げる「厄介な女」がテロリストに打って付けなら、Dilはその正反対だとしてファーガソンの心に分け入る事がどこまで離間策でどこからが本心に由来したことだったか想像するほかはないが、それが始まりでファーガソンはDilを胸中にあたため始める。テロリストで「厄介な女」しか知らないことにも今更ながら気が付いたかもしれない。
 いつかそれらがジョディの脱走戦の始まりだったと気付くだろうか。最後までジョディの言葉に制せられいつでも撃てたろうにやはり撃てない。対して撃たれておかしくない状況でもひるまず逃げるジョディが粘った末勝ったには違いないが、ファーガソンしか眼中にないジョディは状況を見誤ってしまう。もしくはファーガソンの豪語に反してジョディの足は速すぎた。
 そうしてジョディが死ぬ一連の事態でファーガソンが彼の策略に気づいたとしても彼のサソリの性の道連れになるのは偶然にもせよまだ先となる。

 サソリはなぜ川を渡りたいのだろう。好きでも嫌いでも相手を毒針で刺すのが性で、誰からも相手にしてもらえないサソリが誰かに頼んででも向こう岸に行きたいと望む。それでも、川の真ん中で親切なカエルを刺して共に溺れるサソリが、向こう岸まで我慢しなかったのはその先に待つ期待を諦めても今そうしたいからだろうが、刺してしまうと分かっているカエルに対する一分の申し訳かも知れない。同時にサソリの打算を信じて頼みを受けるカエルは未来への期待の強さを分かっていればこそそれを上回って死出の途を共にするサソリの刺す思いの強さに圧倒されるのか?サソリが自らを滅ぼしても通すそんな「性」なら、カエルも死ぬまで他人の未来までも期待して親切を尽くす「性」を通すのか。

 Dilという毒を打たれても捕虜は脱走すると承知していればファーガソンはジョディの策略を意に介さなかったかもしれない。しかし、想像のDilが素顔に塗り替わるなかで受ける衝撃と、あるいはあのとき逃走しながらも牽制を止めなかったジョディの冷静さを思い返し、ジョディの素顔も怜悧な策略家へと雪がれたかもしれない。そして、自分が誰を相手にしたのか思い知り、同僚の「厄介な」テロリスト達なら、何ら気を置く事もなく殺してしまえたろう事、そして彼らと自分の違いにも気づくだろう。または、自分を陥れたジョディがなんとしても生きたかったのがDil故であって、その思いに感化された自分も今やDilのために殺人を犯した事にしようとしているのを奇妙であるやら不思議やらあるいは誰のためにそうするのか訝るのに違いない。
 Dilという毒に打たれ残り2335日を過ごす獄にそのDilが訪ねてくる。Dilを逃がした時、すでにジョディの本性と心中には気付き、それとは正反対な自分が同じDilを愛しているのか、それはおくびにも出さないが、それでもファーガソンはこのようにした事が自分の「性」なのだという。しかし何が本当だろう。獄に繋がれ、いずれ釈放されても政府とIRA双方から監視される運命を背負うとしても「性」なら死ぬまで通すのか?
 毒を受けてしまったあのジョディとの数日間で案外生きる事を慈しむ言葉にも打たれてしまったのかも知れない。Dilが毒で、ジョディの死の間際の言葉そのものもテロリストを運命づけられたファーガソンにとっては優しくも毒として作用してしまったのだとするなら、兵士として死ぬ事はもとよりあっても、このように愛それともどう説明すべきか知れない事に翻弄されて生きるなどまだ想像もできないのではないだろうか。
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