「アトロク」の森田芳光特集を通勤の往復で聴いていたら、本作を観返したくなり、帰ってきてから鑑賞。
リアルタイムには観てなくて、たしか10年後くらいに観たんだと思う。
パソコン通信を扱っていることと、超名場面である「新幹線でのすれ違い」くらいは覚えていたけど、あとはびっくりするくらい忘れていたことにびっくりした。(←びっくりするくらい下手な文)
さて。
「ユー・ガット・メール」より後の作品だと勝手に思ってたんですが、こっちのが2年も先なんですね。
もしかしたらこの手のものとしては世界初かも。まず、そこが驚き。
(リアルな文通ものにまで広げると、エルンスト・ルビッチの昔にもあるけどね!)
宇多丸さんの解説によると、競馬で大穴を当てた森田監督に無駄遣いさせないよう、周囲がパソコンを買わせるように仕向け、それでパソコン通信を知って、着想したというのが本作。
なんだけれど、Wikipediaによると、森田監督が「競馬情報を取得するためにパソコンを買ってパソコン通信の存在を知り」と書いてあるので、森田が「競馬情報を取得する」ことだけにパソコンを使っていたら、本作は生まれず、森田はスランプから映画監督に復帰できず、和子夫人たちの努力が水泡に帰していたかもしれないのですね。
本作が公開された1996年は前年暮れに発売されたWindows95が爆発的に広まった年です。同時にインターネットも。
ですので、森田監督が本作の構想を練っていたり、脚本を執筆していたり、撮影してた頃は、まだパソコン通信が主流だった訳です。
「主流」ってのも違うか。一部の人間しか使ってなかったし、そういう人々がオタク扱いされていた頃です。
私はWindows3.1+Trumpet Winsockでインターネット接続をしてたので、一般の人よりはやや早めにインターネットの世界に触れていたけど、その頃でもやはりパソコン通信をメインにしてました。
本作に登場する「RT」は"(R)eal (T)ime Chat"の略かな。
私たちは普通に「チャット」と言ってましたが。
「みかか代が心配なんで、そろそろ落ちます」なんつってたな(笑)。
今の人には何のことかわかんないだろうけれど(^ー^)
本作の序盤で巧いのは顔文字を説明するくだり。
当時一般人は顔文字なんて知らないから、観客への説明が必要なわけです。
(っていうか、現代は"emoji"がUTF8で共通化されたので、「顔文字」はまたしても分からなくなり気味なんだな~)
(ハル)は観客と同じく「(^ー^)」がわからない。で(ほし)にメールで訊く。
凡百の映画なら、ここでずらずらといろんな顔文字の説明をしてる(ほし)の返信ってことになるんだろうけれど、すぐみんなのRT(繰り返しますがいわゆるチャットです)のやりとりに変わる。
ここのやりとりで、ジト顔だとか泣き顔だとか顔文字が表示されるんだけど、具体的な説明はされなくって、それらの顔文字と共に発言してる内容のニュアンスだけで顔文字の表す意味がわかるようになってる。
パソコン通信やりたての森田監督だろうに、さすがそこにも「言葉でなく映像で説明する」という意思によって、それを実践できる技術をいきなり編み出しちゃってるわけです。天才ってすげ~(@o@;)
ここのくだり、覚えたてで(^ー^)(^ー^)(^ー^)なんて3連発しちゃう(ハル)に寄り添うように(^ー^)を打ってくれる(ほし)のリアクションもいいですね。
文字が実質的な主役である本作。素晴らしい文章表現がこれでもかと詰まっているのですが、白眉は第2幕終盤、本作をうろ覚えだった私でも記憶していた新幹線のくだり。
「私に沢山のメールをくれたハルが、私の生まれ育った場所を200キロのスピードで通過していきました」
「苦しい時、寂しい時、このスピードのハルを見ることにします」
これ、もはや「詩」ですよね?!
それと並んで見事なのは、その後第3幕前後の、(ほし)ちゃんが心乱れるくだり。
「自分の妹が!」で驚いて、黒味になる。本作では画面が黒味になると、メール本文が表示されることが繰り返されるので、「あ。(ほし)ちゃんのメールかな」と思ってたら、これが「カメラの前を塞いでいる図書館の稼働棚によってできる黒味」であることがわかり、図書館で働いている(ほし)ちゃんのシーンに移行する。
ここは2つ意味があって、まず映画的には、すぐに説明しない①「溜め」ですよね。
「で、どうなるの?!」って客をじらす効果。
もうひとつは、②「どんな辛いことがあっても、仕事には行かなきゃならない」っていうオトナの宿命。
脱線しますが、この②が毎回見事だったのは伴一彦脚本の連続ドラマ「パパはニュースキャスター」。
あれは、私生活でどんな辛い出来事ががあっても、毎日夕方には「こんばんは。鏡竜太郎です」とテレビに出なきゃならない田村正和のペーソスとユーモアを描いていた。
で、本作では①②両方を描いてから、(ほし)じゃなく(ハル)のメールが映る。
この間に時間の経過があるわけです。
しかも、その後もかなりの間、(ほし)はメールを返さない。
それからようやく、(ほし)の「出すあてのないメール(もしくは心情描写)の文字が映る。
ここだけ画面に映るテキストの違和感がすごいの。
なぜって、ここだけ禁則処理できてないのです。
本作は「文字が主役」だし、映像にする手前では「文字で表現された脚本」を扱う森田芳光なので、画面に映る文字には人一倍配慮しているはず。
なのに、ここだけは「?」や小さな「っ」が行頭に来る。つまり、禁則処理されてない、不自然な日本語表記になるんです。これが(ほし)ちゃんの動揺を表してる。
この一連のシークエンスでは、同じく「繰り返し映されてきた、読み取りにくいけど、なんとか可読できるレベルで大写しの電光掲示板の天気予報」が、「読み取り不可能な電飾パターンを映している」という演出も入ってきます。
この一連の「文字演出」は舌を巻く。
それと、ラストシーンも素晴らしいですね。
あ。これは勝手な解釈なんですが。
新幹線のプラットフォームで初めて逢った二人が、次第にセピア色になり、やがてモノクロームになり、そしてストップモーション。
これって、リアルタイムじゃなく、何十年も後に(ハル)や(ほし)が「あの頃」を振り返っている「回想」って意味じゃないの?
その後二人がどうなったかは、開かれたエンディングなんでわかんないけど、結ばれたにせよ、別れたにせよ、後でその「貴重な永遠性」を回想しているっていう演出意図じゃないの?
と私は解釈しました。
おっと!
書き忘れました!
実は私、やっぱりネットで出会って、メールのやりとりを重ねに重ねた女性と結婚しましたのですよ。
そんでね! 本作と同じく新幹線のプラットフォームで初めて出逢って。
ただね~。
私の場合は、式を挙げてから、干支がきっかり一回りした後に離婚したんです(^ー^;
まあ、それはまた別のお話!(^ー^)(^ー^)(^ー^)
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追記
学生の頃、「パソ通」で出会って、何度もみんなで「オフ会」して、あと二人っきりでエルミタージュ展やオリバー・ストーンの「JFK」観に行ったり、卒業発表の箏曲部演奏会はレンタルしたVHSカメラで録画してあげたこともある、ちょっと好きだったハンドルネーム「331」ちゃんとは、偶然30年ぶりくらい、去年Facebookで繋がりました。
素敵な二児の母になってらっしゃいました。