レインウォッチャー

(ハル)のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

(ハル)(1996年製作の映画)
4.5
ネット上のチャットルームで出会った〈ハル〉と〈ほし〉。やがて直接メールでやり取りをするようになった2人が辿る、小さなこころの旅。

当時まだ普及率の低かったネット(劇中では「パソコン通信」と呼ぶ)という新たなツールを使いつつ、むしろ「コミュニケーションとは想像力である」という本質に立ち返って、更にはそれをコンパクトで愛らしい物語に整えた、ずっと覚えておきたくなる作品。

この設定、現代においては逆に新鮮だ。常時ワイヤレスで高速接続、メッセージは即読即レス、が当たり前になった世の中で、このタイム感はもはや古代。
また、失われた中間地帯ともいえるかもしれない。今、趣味として文通をしようという人は一定いても(文通カフェなるものもあるとか)、あえてこの技術レベルの「電子メール」に帰ろうとする人は珍しいだろう。レコードのファン層は根強くても、カセットテープやMDにこだわる人が絶滅危惧種なのと少し似てる?

さて、青バックの画面上にぽつ・ぽつ・ぽつと表示される、メールやチャットのフォント。それと交互に、〈ハル〉や〈ほし〉それぞれが日々の中で過ごす時間が映される。
これは、モノローグでもなければ台詞の字幕でもない。サイレント映画の中間字幕とはちょっと似ている気もするけれど、やはり違う。「この人がこんな文を書くんだ」という静かな驚きと発見、もちろんメールならではのちょっとした嘘やギャップが、柔らかなグラデーションと厚みを生み出していく。

文字を読む、という行為そのものが持つ機能を、今作では意識的に研究・活用していると思う。
劇中には、メール以外の様々な文字表現も、自ずと意識が向くようにしれっと配置されている。書籍、電光掲示板、〈ほし〉の手書きの置手紙。字体が変われば印象も変わり、そうでしかあり得ない温度感で持ち場に収まっている妙。はじめ無機的に見えた電子のフォントも、その人らしい言葉の選び方などに気付いた時、たちまち表情のようなものを見せ始める。

何にせよ、わたしたちは、2人の作る文章を読むことで映画に集中し、「想像」する。2人の人柄、余白の人生。この物語の行方。文字が画面に表示されるスピードなんかも密に計算されていて、時に考え込み、時には焦れったい。

そして、このアクションはそのまま劇中の2人の心情、その変化にも通じていく。2人はいずれもとある「喪失」を抱えている人物であり、文章を書いたり読んだりすることを通して気持ちを棚卸して、少しずつ折り合いをつけていくのだ。
当然、適切なリズム感が必要で、だからこそ分かち合える誰かの存在は貴重。2人が惹かれあうのも自然なことだよね、と思わせる。前半で「想像力って怖い」と書かれていたのが、後半では「想像力を刺激して素敵」と転じる、この美しさ。

劇中で、「恋愛はもう一人の自分を探すことかも」なんて表現が出てくる。これもまたハッとさせられるもので、非対面・対面に関わらず、わたしたちが言葉を投げる先にはいつも自分自身の像がいる。それは、なりたい自分かもしれないし、忘れたい自分かもしれない。他者に充てた言葉は同時に自分にも反射して、輪郭をしばし浮き彫りにする。

向き合うのは怖い、やめてしまいたくもなる、しかしそれでも離れられない。
今わたしが打っているこの文章も…無数の情報が溢れて流れていく中で、誰かの目に触れるのは(今作の新幹線のシーンのように)ほんの一瞬で、過ぎ去るだけかもしれない。それでも、海に言葉を投げる。書く前とは少し違ったわたしから、何か答えが返ってくると信じて。

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深津絵里さん当時23歳、感嘆符(「ほえぇ」)でしか表現できない、水際立った可憐さ。