このレビューはネタバレを含みます
現実ではない仮想世界が物語の中心となる舞台。「レポゼッション・メン」「ミッション: 8ミニッツ」「イグジステンズ」あるいは「マトリックス」などが対比として思い浮かぶ。「水槽脳」とは違うけど、とりあえず水槽脳的なと表現すればイメージしやすい人もいるのかもしれない。自分の意思とは無関係にみんなが仮想世界のようなものに巻き込まれている場合、自らの意思によってその世界に入り込んでいる場合、あるいは誰かの意思に巻き込まれて現実を奪われている場合が上記の映画でも大きくわけられる。
本作においては、おもに女性が男性によって現実の生身の身体を拉致・監禁された状態で仮想世界に連れ去られ、そこで飼い慣らされている。そのことに気づくのがフローレンス・ピュー演じる主人公のアリスであり、この仮想世界から何とか抜け出そうともがくのだが、仮想世界に入った最初のきっかけは不明ながら、ここが現実ではないと知りながらもなおここにとどまり続けようとする女性もいる。それは現実では望むことができなかったか現実で失ったかもしれない子どもを仮想現実で手に入れた女性であった。仮想現実の世界から抜け出すということは、その世界にしか存在しない子どもを失うということを意味するからである。
注意深く観れば(というほど注意しなくても)本作では必ずしも男性が常に女性を支配・コントロールしているわけではないことがわかる。先に触れた自らの意思でこの世界にとどまっているオリビア・ワイルド(監督・製作)演じるバニー、この仮想世界の中でヴィクトリー・プロジェクトの創始者とされているクリス・パイン演じるフランクを最後にナイフで刺して主導権を握ると宣言するジェンマ・チャン演じるその妻シェリー。シェリーはこの最後のタイミングで実質的な主導権を握ったのか、それとももともと主導権を握っていたのはこのシェリーだったのか、正直微妙なところ。
映画の中では多くの女性が、男性の快楽・欲求を満たすための道具として人格を無視して弄ばれている。アリスの夫でハリー・スタイルズ演じるジャックは、現実世界で外科医の妻が30時間の勤務を終えて帰ってきたとき、夜な夜なヴィクトリー・プロジェクトに妻を拉致することを計画しており、炊事をしていないのでおなかが減ったと妻に言う。左側に設置された縦型のモニターからはSNSに入れ込んでいることもうかがえる。妻が30時間勤務しているあいだに故障した給湯器の修理もできておらず、工事の人が来なかったという台詞からは、そのあいだずっと自宅にいたであろうことをうかがわせる。たまたま仕事のない日だったのかもしれないが、ぼさぼさの髪や無精ひげの演出はジャックが現実世界で無職であることの暗示なのだろう。
長時間勤務ののち疲れて帰宅し、食事もなく、お湯も出ないためシャワーを浴びることもできない妻アリスに対してジャックは、身体的な接触を求め、むげなく断られる。そうしてジャックはアリスを仮想世界へと拉致することを決意する。実に身勝手でひどい話である。自らの快楽や欲求を満たすために、他人を巻き込むなと言いたくなる。
翻って私たちの生活する現実世界はどうなのだろう。よく考えると、現実の世界でも私たちは相手の同意あるなしに関わらず誰かの人生を程度の差はあれ巻き込んでいるのよね。イスラム世界で女性の人権を無視したさまざまな社会制度・慣行やそれに基づくふるまいがあり、日本でも結婚において夫婦で同姓にすることを強制されている。結婚という制度の中でもさまざまな法的・社会的抑圧や制限があり、個人の自由が奪われる。とはいえ、結婚をしないことによっても自由を奪われるが、結婚や出産には有言無言の圧力がある。
制度の外でも、誰かと関わるということは結局誰かの人生を巻き込んで変えることになる。同意のあるなしはもちろん重要だけど、同意の上であったとしても巻き込まれた人の意図しない仕方で運命が変わることもある。巻き込む方が相手の運命に悪い影響をおよぼして翻弄することもある。ドラッグへの誘因や悪質ホスト問題はどうだろう。もちろんそこに詐欺が含まれることもあるが、そうでなくても強い誘因によって、相手の同意や自由意志のもとではあるけど、ひとたび手を出すともう自分の意思ではどうにもならないこともある。そのことを理解しながら誰かの運命を破滅させる者もいる。
もういちど作品に話を戻す。本作の中でも子どもの扱いはたいへん興味深い。アリスが本部に行って真実に気づいたか気づきはじめたあと、子どもを作るようジャックから提案される。ティモシー・シモンズ演じるコリンズ医師から指示されるか助言されてのことだと考えられる。現実の世界でも、子どもというのはしばしば私たちの自由を制限する夫でも妻でもない第三の存在となる。それは、私たちひとりひとりが自分自身にだけ責任を負って生きているだけでは済まされず誰かの生に責任を負うこと、あるいはそのような責任を負っているとの認識によるものであり、これこそ私たちが生きている限り、たとえ制度の外であったとしても誰かの生に私たち自身の生が巻き込まれ変えられるということ最たるものだろう。
だからそうした責任を負わない、あるいは負いたくないという認識のもと、妊娠・出産しないという選択が女性にはあるはずなのだが、そうした選択・自己決定を何とかしてさせないよう自由を剥奪し、責任を負わせようとする社会があり男性がいる。これをどの程度まで文明社会の発明と考えるのかはここではもう掘り下げないことにするが、本作品の中における子どもの存在は非常に大きな意味を持っているということを指摘しておきたい。〈責任〉ということを抜きにしても、私たちは何に幸せを感じるのだろうなという話。少なくとも、私の幸せが何なのか、最終盤でジャックがアリスに言うような社会やパートナーから押しつけられたり強制されたりする幸せの押し売りはやめほしいよね。
ところで、この映画の舞台となっている世界が現実でないことは、遅くとも11分過ぎでアリスが握りつぶす卵の中身がすべて空である描写で暗示されている。
また、男たちが仮想世界で仕事に行って何をしているのかは、現実世界での描写で示唆されており、この仮想世界に暮らす人びとは現実に生身の身体が存在し、それはどこかで誰かに世話をしてもらっているのではなく、自宅で男が定期的に仮想世界から抜け出して自分自身と仮想世界の中の妻となる女性の世話をしていのである。つまり、男たちが仕事をしに行っている時間の全部または一部は、現実世界に戻って自分と仮想世界に拉致した女性の世話をしているということ。ジャックの場合は妻として選んだのがたまたま交際関係にあった女性アリスというだけで、決して仮想世界の中の女性が男性と交際関係にあったり顔見知りだったりするとは限らない。
なお、「ヴィクトリー・プロジェクト」という名称がジョージ・オーウェルの『1984年』で描かれる「ヴィクトリー」を思い起こさせることは言うまでもなく、まさにこの作品で描かれる仮想世界、あるいはその仮想世界が存在しそれを肯定する現実世界がディストピアなのかを物語っているようである。
最後にアリスはこの仮想世界から抜け出せたのか抜け出せなかったのか、それもまた『1984年』さながらである。私の解釈はあるけれど、この点はぜひ各自でご覧いただいて、ご自身で解釈いただきたい。
疲れたので書き足りないところはまた時間があって気分が向けば後日追記する。以上。
2025年5月5日(月・祝)の未明にAmazon Prime Videoで鑑賞。