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カリガリ博士のJAmmyWAngのレビュー・感想・評価

カリガリ博士(1920年製作の映画)
4.5
サイレント映画における「文字」って、時間の経過や場面の転換などの状況説明だったり、あるいは物語を推し進めるための台詞だったり、要するに映像では表現し切れない要素を文字によって表すのではないかという、ある種の分断的な構造があるもんだと思っていたんですよねこのド腐れ素人はね。
例えば「俺とお前はアイツの事が好きだけども、彼女がどっちを選んでも俺たちは友達のままだぜ(うろ覚え)」みたいな台詞の文字が出て来るけれども、これを映像で表現するのかっつったら何かすごくヤバそうなんで、そこは言語による表象でもってテンポ良くいきましょうよ、っていうように、映像の役割と文字(=言語)の役割は明確に分断されていて、お互いが同時に同一画面に現れる事は無いのだろうなと。
だけども、この作品(しかも初期のサイレント映画であるこの作品)は映像と文字を同時に表出し、互いの役割を融合した意味での映像表現を成し遂げていると僕は思ったので、今更ながら自分の体たらくを恥じ入っていますの in the end of 2017。

映像で表現し切れない要素としての「文字」とは、その性質ゆえにほとんど露骨に「観客に作用する」ものであろう。例えば「その夜…」とかは我々に対する直接的な説明である。また台詞については、確かに「台詞を投げかけられた人物」に対してもその言葉は作用しているワケだけれど、一方でそれはスマートに「物語を語る」ための要素として機能している感が強い(先述の台詞など)。その意味では、やはり文字による台詞も、画面にインサートされる事で、「物語を追う、または意味を追う」我々に作用する性質の表現であろう。

しかしながら、カリガリ博士がある種の強烈な強迫観念に襲われ、“Du Musst Caligari Werden” (“You Must Become Caligari ”) という「文字」が、狼狽するカリガリ博士の姿と共に画面に表出する瞬間がある。その「文字」は、これまでの「観客に作用する」性質を明らかに飛び越えて、ハッキリと「登場人物であるカリガリ博士に対して作用している」のである。この瞬間、本作における文字の作用の明らかな反転を目撃する事でブチ上がりながらも、また一方で「観念とはどこまでも言語なのである」という事実をも目の当たりにする。フロイト的な「前意識に働きかける言語表象」とは、まさにこの事であると思う。これを逆に言えば、「あなたの本質的存在を揺るがす恐るべき観念は、たった4つの単語に解体されるんですよ」というような事であって、人間はたった4つの単語によってさえも自己を喪失してしまうという言語の絶対性、言語パイセンの根源的な支配っぷりを見せ付けられた気がする。物凄く唸ってしまって、テンション上がって寿司の出前を取っちゃった。

まあ何よりも、映像の強度というものが一貫して保たれていると思うのであって、美術的な要素も然る事ながら、人物の顔貌というものがすっごい。楳図かずおや伊藤潤二などのホラー漫画における、「画(=表情)そのものとしての強度のある表現」のルーツ的なものだったりするのだろうか。この作品を観ていて、僕はとにかく両名(特に伊藤潤二)の画の楽しさを思い起こさずにはいられなかったんですよね。
どんでん返しというか、まあ物語的な仕掛けもあって面白いんだけど、取り敢えず単純に「観ていて面白い」と思った。ありがとうカリガリ博士。寿司美味しいっす。
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