tanayuki

ザリガニの鳴くところのtanayukiのレビュー・感想・評価

ザリガニの鳴くところ(2022年製作の映画)
4.1
原作はオーディブルでだいぶ前に視聴済み。朝に聴きながらランニングしてたとき、カイヤに対する評決が出たところで感極まって涙がドバーッとあふれ出て、たいへん弱ったことを、そのとき走ってた周囲の景色と合わせて妙に覚えてる。はたから見れば、ボロ泣きしながら走ってる怪しげなオッサンにしか見えなかったはずだ、実際その通りなのだけど😎

結末はぼんやりと記憶にあったので、映画ではそこまでの感情の昂りはなかったが、誰にも依存せずに自立して生きようと願う人、なかでもそういう女性の生きにくさが丁寧に描かれていて、好感が持てた。

善悪というのは本来、人間がこしらえた人間社会のルールであり、価値判断であるにすぎない。自然を前にしたら(というより、群れから離れて自然と1対1で対峙したら)、人間独自のルールは意味を失い、自然の掟に従わざるを得ない。そこに妥協の余地はない。

父親の虐待に耐えきれなかった母親、兄や姉たちに次々と見捨てられ、最後には当の父親にさえ見捨てられて、たった1人で湿地に取り残されたカイヤにとって、自分を排除した人間社会のルールではなく、自然の掟に従うほうが自然で、ごく当たり前の感覚だったことは想像に難くない。だからこそ、彼女は10年以上も1人きりで生き残ってこれたのだろう。

敵(たいていの人間はカイヤにとっては未知の敵だった)が近づけばさっと姿を隠し、それが通用しないとわかれば、死に物狂いの反撃を喰らわせ、みずからのテリトリーを守る。自分から動き回るのではなく、湿地の奥の棲み家でじっとオスを待ち続けるカイヤは、さながら、交尾したオスを喰らうメスのカマキリや、性的なシグナルを送って呼び寄せたオスを喰らうホタルのようだ。あるいは、砂の底で獲物がかかるのをひたすら待つアリジゴクのほうが、イメージしやすいかもしれない。

カイヤを人間社会とつなぐか細い線はテイト、ジャンピンとメイベル夫妻、再会した兄のジョディ、弁護士のトムの5人だけで、彼らに共通するのは、カイヤの立場を尊重し、むやみに人間社会のルールを押しつけなかったところ。湿地には湿地のルールがあり、彼女はそれを守って生きていることを受け入れた人たちだ。

逆に、人間社会のルール(というか、それ、おまえの勝手な独自解釈だろ、とは思うが)を無理やり押しつけようとしたチェイスは、最終的には、カイヤに「敵」認定される。敵ならば食うか食われるか。自然の掟はシンプルで揺るぎない。

そんなカイヤの生存本能を見抜いたのが、チェイスの母親だけだったというのも何やら示唆的だ。そこには、相手の見てくれには簡単に騙されない、動物的な勘が働いたように見える。だが、チェイスの母親は人間社会のルールの中でしか生きられない。そこから逸脱したカイヤに復讐したかったら、みずからもそのルールから逸脱するしかないが、彼女にはその度胸も覚悟もない。

オーディブルで原作を聞いてたとき、湿地のイメージがわかず、グーグルマップで衛生写真を見て、ああ、こういうところなのかと了解したのだけど、映画ではその作業がいらないどころか、眼前に広がる湿地の風景をこれでもかというくらい堪能できてすばらしかった。カイヤがはじめてやぐらの上から湿地の全景を知ったときの感動がリアルに伝わってきた。

△2022/11/26 TOHOシネマズ六本木ヒルズで鑑賞。スコア4.1
tanayuki

tanayuki