《ミッドナイト上映のミニシアターで体験!》
言うまでもなく"ゾンビ様式"を開発した超パイオニア映画で通っておりますが、当時はアメリカの深夜上映回ミッドナイトカルトから世界中に伝染した一種のアングラ映画でもあった。『エルトポ』『イレイザーヘッド』文化の仲間でもありますね。もちろん家で孤独に観ていた作品であったがミニシアター環境が実に面白く、緞帳をスタンダードサイズギリギリまで寄せていた為、右端表示される字幕の一行が削られてしまうアクシデントがあり(優しいシネフィルがスタッフさんに声をかけに行ったぽく、途中修正されました)忘れられない『ナイトオブザリビングデッド』体験となりそうだな。まあ正式には20時半上映ですのでレイトショーなんだけど気分はアングラ映画全開で楽しんだぞー。
まあ、しかし抜群に面白い。当然大傑作、本作の場合、初見であっても常識となっているゾンビのA〜Zを未来人の目線から元祖ゾンビの成り立ちを観るか、一旦ゾンビ概念を知らない状態に再現してみて鑑賞するか、の切り口一つで夢が広がる。例えば、墓場で対面するビルハインツマン演じたセメタリーゾンビ、「単なる酔っ払いにしか見えんぞ」と「あなたが全ての始まりですね、記念すべきカニバリゾンビ第一号」が同時に巡って笑顔になってしまう。その直後のバーバラの転び芸→腰が抜ける→何故か車のキーがなく、追いつかれてしまうホラー基礎をルビ振って芝居付けたご都合主義に大ウケする。
なんてことは別にどうでもよくて、ご存じカニバリゾンビ発明であるが、それを本格的に流行らせたのは、むしろ次の『ゾンビ(Dawn of the Dead)』で確立される。そこからイタリアでグロゾンビが大量生産されたり、やがては『バイオハザード』とかハロウィンインスタ映えとかでゾンビまみれになるが、実は本作ほど従来のゾンビ史とは分けて語れる、最も異質な作品なのではないかと。ゾンビ映画って割には主軸は籠城戦サスペンスだし、公民権運動のご時世柄ポリティカルに攻めてるげ、でもありそれ以上に他者との軋轢(子供、女、年齢差、人種)が冷徹なまでにハードコアすぎる。といった模様から『ジョンカーペンターの要塞警察』決断のタイミングによるショッキングなラストから『ミスト』などに近い文脈があり、得体の知れない大衆の暴力現象が徐々にゾンビ現象なる悪夢と明かされていくプロセスを前に打ちひしがれる登場人物らのドラマを観ていく。
その情報も一方的な報道映像という地に足のついた演出で、リアルタイムにゾンビの特性が知らせられる。そのため彼らは右往左往しながら打開策を練るものの、極限の恐怖により理性と意見が割れてしまう。恐怖による精神の崩壊を前半のバーバラ編で注力しとく手際も上手く、これから始まる大惨事にDo the Right Thingなんぞ通用しないことを告げられる。
だからこそ黒人が主導権を握り、白人ルックのゾンビをガンガン撃ち殺す描写、裏切り者を成敗する様子がポリティカルな側面でタブーに見えかねないも、彼ら食わせ者揃いの人間的な内部崩壊だとしっかり確認できる。実は結局地下室意見が正しかったというなんとも苦い皮肉が後からわかってくる。
また、本作のゾンビ史と分けて観れそうな要因の追加として、自主映画要素の強い見た目が働いている。もちろん自主映画ですが、およそ自主映画や処女作といった荒削りな感覚には異様なオーラが放たれ、ジャンル区別前の見応えがあると思っていた。
自主映画ならではの即物性が本作には強烈で、冷徹さを物語るカット割りや展開。
分かっていても、我が子のゾンビ化にはキツいものがありますが、突然の停電、ゾンビとなった兄との対面などがメチャクチャ即物的。特に主人公がバーバラではなかったミスリードはいつ観ても新鮮に感じるし、あくまでも劇的ではなく即物的に。
これらの、ゾンビ映画にしては異質な数々はアメリカンニューシネマの台頭、ヘイズコード撤廃で新時代へ突入した映画群のなかでも一際、光る悲惨さが確認できます。
そういえば本作の正式な続編は『ゾンビ』以上に『バタリアン』の方が合わせにきてるって関係性も大好き。