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デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリームのKKMXのレビュー・感想・評価

4.2
 いや〜めちゃくちゃ濃厚なドキュメンタリーでした。モノローグがすべてボウイ本人なので、非常に抽象的で哲学的な語りが2時間以上続くという、ファンや研究家にはありがたい一方で難解さは否めません。ガッツリと理解したい左脳人間の俺っち的にはスルーッと観ることは不可能で、かなり疲れましたね。音楽が良いので劇場案件との声が多そうですが、自分的には配信で巻き戻しながら日を分けて観たいガーエーです。

 あと、自分はボウイファンでもなんでもなく、せいぜい有名曲を聴きかじる程度のベスト盤野郎です。サブスク時代なんで有名アルバムを通して聴いてみたけど、ジギーくらいですね、あとは退屈なのであんまりフィットしないミュージシャンです。ボウイよりも盟友イギーポップ大先生の方が何倍も好き。ただ、ChangesやLife on Mars? とかはめちゃ名曲だと思ってます。
 そんな立場の人間が観ても、興味深い作品でしたよ。ボウイが何を考え、何を想いながら音楽活動をしていたのかが割と見えてきました。キーワードを挙げて、ボウイを考察・分析していきます。


①孤立・孤独と小宇宙
 ボウイは幼少期からどうやら異質な存在という自覚があったようです。鋭敏な一方で、他の人が感動するところで感動しないため、自分自身が周囲から浮く感覚があったようです。ボウイは今で言う感覚過敏性を持ちながらも、情緒に距離があるタイプだったようです。
 さらに、親子関係もしっくりいってなかったようです。ベルイマンみたいな虐待とかは語られなかったのでヤバそうな雰囲気は感じませんでしたが、通じ合えない関係だった様子。
 そんな幼少期を過ごせば、世界から切り取られて、自分だけが絶対的な孤独の中にポツンと存在している、そんな風に感じても無理ないと思います。

 ボウイは、孤立していると内部に小宇宙が生まれると述べています。この小宇宙こそボウイのアートであり、この小宇宙を感じることで、きっとボウイはこの世に自分が存在する唯一の手応えを感じていたのかもしれません。ボウイにとって自分を生きるとは、内なる小宇宙から生まれたアートを純粋に表現することなのだと感じました。


②義兄の発病と無常観
 両親とのつながりが希薄だったボウイですが、唯一つながっていたのは義兄(母の連れ子?)。彼はボウイにケルアックの路上を勧めたサブカルエリートでボウイの第3の目を開かせたメンターです。しかし、義兄は軍隊に入った後、統合失調症を発病してしまいました。
 この体験から、ボウイは、世界とは突如変化し、そしてこれまでの穏やかな日常が呆気なく断絶してしまうことを思い知りました。そして、それが激しい痛みをもたらすことも体験したのです。この体験は、繊細で孤独な少年にとって決定的な一撃になったことは想像にかたくないです。

 その結果、もののあはれ、無常観がボウイの中に強く刻まれました。仏教を学んだボウイは、残ったのは無常観という言葉だった、と語っております。本作の前半では、ボウイはよくこの言葉を口にしていました。
 情緒は遠いが、断絶の痛みと悲しみが根底にある。そのため彼のアートはクールでスタイリッシュでありながら、十分にエモーショナルで、ブルースでもあります。だから万人に届いて、現在も愛され続けるのでしょう。


③チェンジズ
 おそらく義兄の発病から、世界は常に変化する、従って己も変化し続けなければならない、というボウイの芸術的な基本姿勢が生まれたと考えられます。世界は無常で、突如変化し、流れは断ち切られます。従って、今ここの言葉やイメージ、その瞬間に生まれる火花こそが真実のアート。それを誠実に、純粋に捉えるには、変わり続けるしかない、とボウイは感じていたのでしょう。変化しなければ、内的な小宇宙からアートは生まれないのだと思います。
 変化しないアートはボウイにとって嘘で、それ故に若き日のボウイは強迫的に変化を自らに強いてきました。住む場所を変え、バンドメンバーを変え、音楽性やビジュアルも変える。とにかくこの男、最後まで大胆な変化を遂げ続けました。変化こそがボウイのアートの根幹なのです。
 ボウイは言葉に拘ったアーティストで、本質は詩人だと思います。こだわりが言葉ではなく純粋に音だけであれば、彼は間違いなくジャズミュージシャンになっていたでしょう。

 一方で、80年代以降のボウイは自然に変化できたように見えました。肩の荷が降り、ポップに寄って多くの人にアピールしたり、愛の喜びを素直に享受したり、90年代の刺激的なオルタナティブ・ミュージックに傾倒したりと、変化はしてますが、ストイックなまでに自らに変化を強いてはいないようでした。ボウイは自らのアートとシリアスに向き合い続けた結果、自然体でアートを感じ、表現できるようになったのでしょう。それもまた、魅力的な変化だと感じます。


④カットアップ、文脈よりイメージ
 同じ日々が続かない、突如断絶がある、という世界観を有するボウイは、継続的な文脈よりも、瞬間のイメージの方がリアルなのだと思います。
 初期のボウイはバロウスのカットアップを愛用していました。「都会の人は断片的な情報からイメージを膨らませる習慣がある」とのセリフもあります。これすなわち連想ですね。

 つまり、ボウイは文脈あるテキストで内容を伝えるのではなく、断片的な言葉やイメージを投げ込み、受け手のイメージを喚起させるようなアートを目指していたと思われます。物語ではなく詩です。ボウイはAという情報を相手に伝えて理解を促すことは求めておらず、Aというイメージを投げ込み、受け手がAから生まれるXやYというイメージを感じてもらうようなことを目指していたのでしょう。


⑤アポロン的芸術とディオニュソス的芸術
 ニーチェは『悲劇の誕生』という著作で、アポロン的なアートとディオニュソス的アートを分類しています。アポロンは理性的、統合的で明るいもの、ディオニュソスは混沌にして刹那的、ダークなもの、みたいな感じです。音楽自体はディオニュソス的らしいですが、音楽も2つに分類できるそうです(ざっくり説明ですが、哲学クラスタの方間違っていたら指摘よろしく)。
 
 ボウイの音楽や活動は、一見ディオニュソス的に見えますが、自分的にはアポロンタイプに思えました。

 変化していく、というのもコンセプチュアルだし、それぞれの自体のアートも、意識によって統括された理性的なものに見えます。衝動からいきなりジギー・スターダストやベルリン3部作が生まれるとは思えない。はじめに直観があるものの、それを料理する手法は論理的で統合的です。そもそも、論理的に切り分けていく作業自体が理性的=アポロン的なので、変化し続けると宣言して時期ごとに方向性を変える態度はアポロン的と言えそうです。つまり、混沌を理性によってアート化するのがボウイのやり方なのだと感じました。

 で、俺自身はディオニュソス的なアートを好むので、ボウイにハマらないのも当然かもなぁ、と感じましたね。
 例えばKKMXのネ申であるイギー・ポップ大先生はコンセプトなど無く、混沌、衝動、盛り上がるとチ☆ポ露出と実にディオニュソス!混沌と同一化して爆発するのがイギー大先生でございますッッ!
 イギーも変化するが、ボウイのようにテーマ性のある変化というよりも、いきなり内省的な弾き語りっぽいアルバムを出したかと思えば突如シャンソン歌い始めるなどディオニュソス。

 そんなディオニュソスとアポロンは真逆ゆえか大の仲良し。ボウイは何度も破滅しかかったイギーを助けています。イギーはそんなボウイを何度も平然と裏切りますが(マジで大先生イカれてるな)、それでもアポロンはディオニュソスに手を伸ばし続けました。
 ボウイが亡くなった時、イギーはこう述べています。「彼は光だった」と。


https://youtu.be/JFHC6t13hi0
David Bowie / Heroes
アポロン的な感じですね

https://youtu.be/jQvUBf5l7Vw
Iggy Pop / Lust For Life
いや〜実にディオニュソス!江頭2:50はイギーをモロパクしているのがわかります。
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